最近、プーチン大統領訪日で、マスコミは北方領土問題を話題にしている。
北方領土を返さないからロシアが悪いという、毎度おなじみの議論が繰り返されて半世紀以上。
進展が少しもないのはいい加減辟易する。
領土問題自体にではない、マスコミの論調にだ。
我が国の領土問題は北方領土以外に尖閣諸島、竹島がよくマスコミの話題になる。
1. 辺境の離れ島はくれてやれ!
領土問題に対する私の率直な意見はこうだ。
尖閣諸島は中国、竹島は韓国、北方領土はロシアにそれぞれくれてやっても構わない。
あんな辺境の土地のおかげで隣国との友好関係が妨げられているのは無意味だ。
ましてやあんな離れ島のせいで、日本と隣国間に戦争が勃発してはたまらない。
東京、大阪、名古屋のような大都市を外国がぶんどろうとしているならいざ知らず、なぜあんな離島の所有権にこだわるのか。
尖閣諸島はご存じだろうか。
釣島はアホウドリしか住んでない無人島だ。
こんな無人島のために日中戦争をけしかけようと国民を情報操作する最近のマスコミには、心底憤りを覚える。
それにくらべ、竹島は完全な無人島ではないが、記念碑が建っていたり、おみあげ売場があるだけで、ほぼ無人島に近い。おみあげ売場には「独島(竹島の意)は韓国領だ」とハングル文字で書かれたTシャツを販売しているという。
私に言わせれば、竹島は、秩父の山の頂上に建てられた山小屋と同レベルの観光地である。家が近くなら休日に遊びに行ってもいいかもしれないが、遠方からはるばる旅行するほどの場所ではない。
そこへいくと北方領土は一番まともだ。ネットで検索するとロシア風の美しい洋館や、埠頭に佇む美しいブロンドの美女の写真が見つかる。
だがそれもロシア領ならではの風景かもしれない。ウサギ小屋に住まわされている日本人は、欧米の住宅の大きさを認識すべきだ。
日本人が彼ら並みのまともな家に住むようになって、はじめて日本領も北方領土のような美しい洋館が立ち並ぶ街並みになるのではないか。
尖閣諸島や北方領土は周辺の海域で石油が採掘できる、という人がいるかもしれない。
だが私は石油には興味がない。
原発と火力発電をなくしても、エネルギー問題は解決できる、いや、解決すべきだというのが私の考えだ。
現在開発された技術を駆使するだけでも、再生可能エネルギーだけで七割近く解決できる。新エネルギーを解決すれば、もはや石油には用はない。
本題からはずれるので詳細は記さないが、これが私の持論だ。
いずれにせよ辺境の離れ島、すなわち北方領土、尖閣諸島、竹島は外国にくれてやり、その分、日本は平和を獲得すべきだ。
2.むしろ横田基地返還を
外国から領土を返してもらうなら、むしろ、在日米軍基地を撤廃して、基地の土地を米国から返却してもらう方がよほど国益にかなっている。
たとえば東京多摩地区に住む住民にとり、一番返還してほしい土地は横田基地である。
横田基地の土地は民間が自由に利用できる国際空港にしてはどうだろう。
わざわざ遠方の成田空港に行かなくても海外旅行ができる。羽田空港に行かなくても、北海道旅行や沖縄旅行が楽しめる。
ここで考えてほしい。
尖閣諸島、竹島が返還されても日常生活で利便性を感じる日本人はほとんどいない。北方領土はこれら二つより少しましだが、それでも大したことはない
だが横田基地返還の場合、東京都民、神奈川県民、埼玉県民のライフスタイルに多大な影響を与えるだけでなく、日本経済向上に大いに貢献するはずだ。
在日米軍基地を国内から撤廃したら、外国が攻めてくるのではないか。
こういうことを心配する人もいるだろう。
だが後述するが北朝鮮は実質、米国の植民地で、米国の命令でテポドンを日本向けに配置しているのである。
在日米軍基地は日本を守っているのではなく、”思いやり予算”などで日本から搾取しているのだ。
3. 朝鮮半島の領土問題意識を
ムーパルチャンネルの番組「国家非常事態対策委員会」で最近、ベンジャミン・フルフォード氏(以下、BF)が興味深い発言をしている。
日本、韓国、朝鮮が一つの国に統合するという動きがあるというのだ。
もともと第二次世界大戦前、三十年間、朝鮮半島と日本列島は大日本帝国という一つの国だった(台湾や南方諸島も含めて)。
もともと一つの国でを、戦後、米国が三つに分断統治して植民地化し、互いに争わせるようにこの地の国民たちに情報操作してきた。
歴史的にも極東の半島と列島はほぼ同一民族と言えるが(日本語と韓国語は姉妹言語であることなど)、この地の国民に、長い間、それに気づかせないよう、嘘の教育をしてきたため、現時点では感情的に互いを嫌いあっている。
だが日朝韓が一つになれば、中国、ロシアと同等の大国が誕生する。だからもう一度、極東アジアは一つになるべきだ。
BFはそう唱える。
日本と韓国が米国の植民地であることは、在日または在韓米軍基地から推測がつくが、北朝鮮が米国の植民地と言われてもピンとこない人もいるかもしれない。
これはBFの過去の動画を見てもらえば理解できる。
マスコミは北朝鮮は米国の敵国で、米国は日本と同盟国だと喧伝するが、これはプロパガンダに過ぎない。実際は、北朝鮮はCIAの命令で日本向けテポドンを配置しているのだ。
極東アジアを分断させ、互いに争わせた方が米国としては支配しやすい。一つにまとまって国力を持たれるのが一番困る。
テポドンの核兵器は米国製またはイスラエル製とのこと。
常識的にものごとを考えてほしい。北朝鮮のような後進国が独自で核兵器を開発できる技術力がないことは、誰もが合意できるだろう。
第二次大戦後、ドイツはベルリンの壁で東西に分断された。その後、89年にベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは再び一つの国になった。なぜ一つになったのか。それはもともと一つの国だったからだ。
われわれもまた、過去の記憶を呼び戻すべきだ。極東アジアを外から見たら、一つの民族だ。まずは米国の植民地状態から独立し、もう一度一つになるべきだろう。
ただし片方がもう片方の政府を征服するのではなく、対等合弁が必要だ。
共通の言語は英語とし、旧日本領は日本語と英語、旧韓国領、旧朝鮮亮は韓国語と英語というように、地域ごとに標準語を調整してはどうか。
また明治維新では廃藩置県により、それまで半独立国といっていい藩が解体し、中央集権体制が確立されたが、今度はその逆に、ローカル地域の地方自治権を強化し、国全体としては外交、防衛のみの行政に特化した連邦国家のような体制が望ましいだろう。
つまり半島と列島が統合する最大のメリットは第一にこの地域内での戦争が起こらないことである。軍隊だけ統一し、そのための共通の国家元首を置き、それ以外の行政はすべて地方自治が担当するというのでもいいだろう。
領土問題というと、マスコミは北方領土、尖閣諸島、竹島ばかりを取り上げ、日朝韓統一問題に触れることはない。
だがこちらの方がはるかに関心を持つべき領土問題なのだ。
2016年12月24日土曜日
2016年10月14日金曜日
納得いかない ピコ太郎 vs ボブ・ディラン
最近納得いかないことがある。ピコ太郎とボブ・ディランに関するニュースである。
1. ピコ太郎ってどうよ
ピコ太郎という見るからにヤクザ芸人のパフォーマンス動画が、ユーチューブのある部門で再生回数がトップになったという。
ネットの書込みをみると、ピコ太郎がどうして面白いのかわからないといった意見を複数目にしたが、私も同意見である。
おそらくピコ太郎の人気は芸能事務所側の偽装であり、再生回数トップのニュースはステマなのだろう。
ピコ太郎にかぎらず芸人なら誰もが似たような事務所側のステマで売り出されるのだろうが、ピコ太郎の場合、芸が下手過ぎてステマが露見したといったところか。
むしろ「前職ヤクザの芸人です」といった歌詞をラップで歌うとか、ヤクザネタで笑わせれば受けるのではないか。
2. 春樹でなく、ボブ・ディランのノーベル文学賞ってどうよ
ピコ太郎と違ってボブ・ディランが世界的大スターであることを認めるのはやぶさかではない。だが村上春樹を差し置いて、ミュージシャンがノーベル文学賞受賞とは、正直ぶっ飛んだ。
イチローがノーベル物理学賞を受賞したようなものである。
ネットジャーナリストのリチャード・コシミズ氏によれば、ボブ・ディランの受賞は、春樹にノーベル賞を取らせないための裏社会の苦肉の策とのことらしい。
2009年、エルサレム賞を受賞した春樹は受賞スピーチでイスラエルのパレスチナ爆撃を非難した。これが世界を支配するユダ金の虎の尾を踏み、結果としてノーベル賞を取れなくなった。リチャード・コシミズ氏はそう主張する。
そもそもノーベル賞は政治色が強い。かつてチャーチル首相のエッセーがヘミングウェイを差し置いてノーベル文学賞を受賞したときも、「えっ?」だったのでは。
3. 春樹が「笑い飯」でなければ、小川洋子待望論
ツイッターの書込みによると、M-1の「笑い飯」のポジションにノーベル文学賞の春樹がいるという。
「笑い飯」はわざと優勝せず、ほとんど毎回M-1に出場して番組のレギュラーになり、最終回に優勝した。早く優勝するより、番組のレギュラーになって毎年テレビ出演する方が芸人として得なのだろうと素人目にも推測できたが、そこはお笑い番組である。そういう「笑い飯」のセコさ自身がギャグだった。
同じように毎年、出版社など関連業界で春樹ネタで引っ張って商売し、そろそろ世間が飽きかけたころに受賞する。そういう筋書きかもしれない。
ただし、そうではなく、春樹では永遠に受賞できないなら、日本代表を交代すべきだ。
純文学系で、国内外で評価されている春樹より若い作家......小川洋子あたりはどうだろう。
来年から春樹をやめ、小川洋子をノーベル文学賞レースに出場させるのだ。
日本ペンクラブさん、電通さん、いかがですか。
1. ピコ太郎ってどうよ
ピコ太郎という見るからにヤクザ芸人のパフォーマンス動画が、ユーチューブのある部門で再生回数がトップになったという。
ネットの書込みをみると、ピコ太郎がどうして面白いのかわからないといった意見を複数目にしたが、私も同意見である。
おそらくピコ太郎の人気は芸能事務所側の偽装であり、再生回数トップのニュースはステマなのだろう。
ピコ太郎にかぎらず芸人なら誰もが似たような事務所側のステマで売り出されるのだろうが、ピコ太郎の場合、芸が下手過ぎてステマが露見したといったところか。
むしろ「前職ヤクザの芸人です」といった歌詞をラップで歌うとか、ヤクザネタで笑わせれば受けるのではないか。
2. 春樹でなく、ボブ・ディランのノーベル文学賞ってどうよ
ピコ太郎と違ってボブ・ディランが世界的大スターであることを認めるのはやぶさかではない。だが村上春樹を差し置いて、ミュージシャンがノーベル文学賞受賞とは、正直ぶっ飛んだ。
イチローがノーベル物理学賞を受賞したようなものである。
ネットジャーナリストのリチャード・コシミズ氏によれば、ボブ・ディランの受賞は、春樹にノーベル賞を取らせないための裏社会の苦肉の策とのことらしい。
2009年、エルサレム賞を受賞した春樹は受賞スピーチでイスラエルのパレスチナ爆撃を非難した。これが世界を支配するユダ金の虎の尾を踏み、結果としてノーベル賞を取れなくなった。リチャード・コシミズ氏はそう主張する。
そもそもノーベル賞は政治色が強い。かつてチャーチル首相のエッセーがヘミングウェイを差し置いてノーベル文学賞を受賞したときも、「えっ?」だったのでは。
3. 春樹が「笑い飯」でなければ、小川洋子待望論
ツイッターの書込みによると、M-1の「笑い飯」のポジションにノーベル文学賞の春樹がいるという。
「笑い飯」はわざと優勝せず、ほとんど毎回M-1に出場して番組のレギュラーになり、最終回に優勝した。早く優勝するより、番組のレギュラーになって毎年テレビ出演する方が芸人として得なのだろうと素人目にも推測できたが、そこはお笑い番組である。そういう「笑い飯」のセコさ自身がギャグだった。
同じように毎年、出版社など関連業界で春樹ネタで引っ張って商売し、そろそろ世間が飽きかけたころに受賞する。そういう筋書きかもしれない。
ただし、そうではなく、春樹では永遠に受賞できないなら、日本代表を交代すべきだ。
純文学系で、国内外で評価されている春樹より若い作家......小川洋子あたりはどうだろう。
来年から春樹をやめ、小川洋子をノーベル文学賞レースに出場させるのだ。
日本ペンクラブさん、電通さん、いかがですか。
2016年6月22日水曜日
2016年1月23日土曜日
クイズダービー やらせ否定論に物申す
どうでもいい話だが、往年の人気クイズ番組「クイズダービー」のやらせ否定論、あるいはやらせ弁解論がネットで出回っている。
私は裏事情は知らないので、番組出演者や製作者がやらせはなかったと主張すれば、「ああ、そうですか」と引き下がるしかないのだが、今考えると、やらせがなかったとしたら、あまりに面白すぎる番組だった。
レギュラー解答者の中で漫画家が一番正解率が高く、大学教授が一番正解率が低い。
これがこのクイズ番組の人気のすべてだろう。
ネットはおろかPCさえ家庭に普及していなかった時代、大学教授の権威は今より格段に高かった。
一方、漫画は文化としてまだまだ軽蔑されていた時代。
漫画はくだらなくてもそれを描く漫画家は思っているより頭がいいのではないか、というような風潮は七十年代初頭からすでにあったような記憶がある。
だが大学教授を差し置いて、たかが漫画家がもっと頭がいいわけがない。
そういう常識がまかり通っていた時代だったから、はらたいらの活躍と、篠沢教授の珍解答の組合せは面白かった。
特に司会の大橋巨泉が毎回、お約束で篠沢教授をけちょんけちょんにけなす。
「あなた、それでも大学教授ですか」
この決め台詞で全国の番組視聴者は笑い転げたものだ。
やらせがあったらつまらない。ガチだったら無条件で面白い。こういう価値観は、昭和から平成にかけて、あるいは20世紀末から21世紀初頭にかけて、特にプロレスの歴史的変遷の中で、時代遅れになったと思う。
WWEはやらせを標榜しながら、世界一の興業成績を誇るプロレス団体である。
やらせでも面白いものはある。ガチでもつまらないものはある。
つまらなくてみんなが見向きもしなくなれば、その興業はなくなるが、存続しているということは自分はつまらなくても、面白がっている客がある程度いるということになる。
私はWWEの面白さをみんなが理解すべきだと言っているのではない。
ただやらせかガチかとは別に、面白いか面白くないかを論じる視点を持つべきだと思うのだ。
よくプロレスと総合格闘技を論じる場合、やらせなら無条件につまらなく、ガチやら無条件で面白い、という価値観を大前提に議論されるが、この大前提が間違っていると思う。
ある人に言わせれば、およそ格闘技はけんかから発展したようなスポーツで、やらせかガチかに関係なく、どちらも野蛮で嫌い、とのことである。
彼女はプロレスもボクシングもK-1も総合格闘技も見ない。
こういう価値観も”あり”だと思う。
「アイアンシェフ」がすぐに打ち切りになってしまったのも、同じ感じがする。
やらせかやらせでないかが、ネットでは大きな論点になっていた。
だが最初から勝負けはやらせであることを標榜した上で、料理文化を紹介するという観点で番組作りをしていった方がよかったのでは。
いずれにせよ、「クイズダービー」が今後復活するのであれば、自分としては、やらせを最初から標榜した面白い番組を期待したい。
私は裏事情は知らないので、番組出演者や製作者がやらせはなかったと主張すれば、「ああ、そうですか」と引き下がるしかないのだが、今考えると、やらせがなかったとしたら、あまりに面白すぎる番組だった。
レギュラー解答者の中で漫画家が一番正解率が高く、大学教授が一番正解率が低い。
これがこのクイズ番組の人気のすべてだろう。
ネットはおろかPCさえ家庭に普及していなかった時代、大学教授の権威は今より格段に高かった。
一方、漫画は文化としてまだまだ軽蔑されていた時代。
漫画はくだらなくてもそれを描く漫画家は思っているより頭がいいのではないか、というような風潮は七十年代初頭からすでにあったような記憶がある。
だが大学教授を差し置いて、たかが漫画家がもっと頭がいいわけがない。
そういう常識がまかり通っていた時代だったから、はらたいらの活躍と、篠沢教授の珍解答の組合せは面白かった。
特に司会の大橋巨泉が毎回、お約束で篠沢教授をけちょんけちょんにけなす。
「あなた、それでも大学教授ですか」
この決め台詞で全国の番組視聴者は笑い転げたものだ。
やらせがあったらつまらない。ガチだったら無条件で面白い。こういう価値観は、昭和から平成にかけて、あるいは20世紀末から21世紀初頭にかけて、特にプロレスの歴史的変遷の中で、時代遅れになったと思う。
WWEはやらせを標榜しながら、世界一の興業成績を誇るプロレス団体である。
やらせでも面白いものはある。ガチでもつまらないものはある。
つまらなくてみんなが見向きもしなくなれば、その興業はなくなるが、存続しているということは自分はつまらなくても、面白がっている客がある程度いるということになる。
私はWWEの面白さをみんなが理解すべきだと言っているのではない。
ただやらせかガチかとは別に、面白いか面白くないかを論じる視点を持つべきだと思うのだ。
よくプロレスと総合格闘技を論じる場合、やらせなら無条件につまらなく、ガチやら無条件で面白い、という価値観を大前提に議論されるが、この大前提が間違っていると思う。
ある人に言わせれば、およそ格闘技はけんかから発展したようなスポーツで、やらせかガチかに関係なく、どちらも野蛮で嫌い、とのことである。
彼女はプロレスもボクシングもK-1も総合格闘技も見ない。
こういう価値観も”あり”だと思う。
「アイアンシェフ」がすぐに打ち切りになってしまったのも、同じ感じがする。
やらせかやらせでないかが、ネットでは大きな論点になっていた。
だが最初から勝負けはやらせであることを標榜した上で、料理文化を紹介するという観点で番組作りをしていった方がよかったのでは。
いずれにせよ、「クイズダービー」が今後復活するのであれば、自分としては、やらせを最初から標榜した面白い番組を期待したい。
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