2018年1月11日、青空文庫に李箱(イ・サン)の詩が複数公開されました。
これまで李箱の存在は知らなかったのですが、韓国では有名な詩人、小説家とのこと。
本来、韓国語で作品を書いているようですが、今回公開されたのはすべて日本語で書かれた作品です。
一読した感想は、一言で言って、”抑制のきいた上質の前衛文学”といったところです。
ここで教科書的な解説です。
フランス文学史では前衛文学のムーヴメントは2回あります。1回目は19世紀末から20世紀初頭のアポリネールを中心とするシュールレアリズムやダダイズムのムーヴメント。2回目は戦後、サルトルおよびそれ以降のヌーボロマンのムーヴメント。
一方、アメリカ文学では戦後、バロウズなどのビートゼネレーションのムーヴメントがあります。
このうちフランス文学のシュールレアリズムとアメリカ文学のビートゼネレーションはいずれも文学というより、絵画、造形、音楽といった”非文学”のアーティストたちのムーヴメントで、その中にたまたま詩人が紛れ込んで前衛文学を発表しました。このため、これまでの文学の常識を逸脱した表現が特徴的と言えます。
一方、ヌーボロマンは文学を構造的に分析、研究した上で前衛を試みた、コテコテの活字メディアの前衛文学でした。
80年代のマルケスやボルヘスらの前衛ラテン文学は、どちらかと言えばこのヌーボロマンの系譜につながるものでしょう。
李箱は前者、つまりアポリネールやバロウズたちが試みた前衛文学に分類できると思います。つまり、前衛アートとしての文学です。
時代的にも戦前の詩人ですので、李箱自身もダダイズムを意識的に目指していたのかもしれません。
学生時代、現代詩手帖を購読し、寺山修司のアングラ芝居や実験映画にたしなみ、安部公房の前衛小説を読み、70年代のブリティッシュプログレを聴きまくり、エッシャーの展覧会に足を運び、さらにはカルトムービーのメッカ、四谷のイメージフォーラムの常連だった私は、筋金入りの前衛芸術オタクです。
その私から言わせれば、バブル時代にもてはやされた現代詩にくらべ、李箱の詩はいい意味で抑制がきいているように思えるのです。
完成度の高い前衛文学、というのとは少し違いますが、現代詩の悪い意味での支離滅裂やカオスがなく、虚無的または厭世的な基調低音で作品がまとめられています。
今回、公開された作品の中で一番注目したのは「AU MAGASIN DE NOUVEAUTES」でしょうか。
フランス語で「新しいお店にて」といった意味になるようです。詩は日本語で書かれますが、随所に中国語の単語が出てきます。
母国語が韓国語の李箱にとり、タイトルのフランス語も本文の日本語や中国語も外国語のはずです。
もしかしたら李箱は意図的に多国籍言語で作品を書いたのかもしれません。
作品を一貫して流れるトートロジー的表現もまた、言語を超越したところにある詩を目指していたのかもしれません。
李箱の詩を私は完全には理解していませんが、無意識のレベルで漠然と”好感”を持ちました。
日帝植民地時代の朝鮮に生きた李白。政治的抑圧感や反体制的メッセージをそこに読むことはできるでしょうが、前衛文学を志す以上、作者の関心は半分以上、文学上の方法論にあったのではないかと想像します。
2018年7月14日土曜日
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