日本
①死の島/福永武彦
②同時代ゲーム/大江健三郎
③騎士団長殺し/村上春樹
④千年の愉楽/中上健次
⑤ブレイブ・ストーリー/宮部みゆき
⑥失楽園/渡辺淳一
⑦コインロッカー・ベイビーズ/村上龍
⑧家畜人ヤプー/沼正三
⑨他人の顔/安部公房
⑩ドグラ・マグラ/夢野久作
海外
①失われた時を求めて/プルースト
②カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー
③自由への道/サルトル
④白鯨/メルヴィル
⑤ヴァリス/ディック
⑥戦争と平和/トルストイ
⑦百年の孤独/マルケス
⑧薔薇の名前/エーコ
⑨ライ麦畑でつかまえて/サリンジャー
⑩ガリバー旅行記/スウィフト
2019年6月2日日曜日
2019年5月16日木曜日
文学研究とは何か
文芸評論家は印象批評やテクスト論を含め、どんな方法で評論をしてもいいと思いますが、アカデミズムの研究者はあくまで科学的に、つまり論理的、客観的な事実を重視し、主観的感想は極力さけるべきだと思います。
文芸評論家の評論は自由な読書感想です。テクスト評論も可。作者のバックグラウンドの情報から評論しても可。ただしそれを読んだ読者の方でも、この評論はすばらしい、またはくだらないといった感想を自由に持てます。
研究者はデータの整理が主な仕事です。作者名と作品名、作品の発表年、作者の生年と没年およびその生涯、作品の発行部数、どんな文学賞をいつ受賞したかといったデータが重要です。
また、この小説は一人称小説、あるいは三人称小説といった明らかな客観的事実にも研究者は言及できます。
その一方で、作品が面白い、またはつまらないといった、主観的かつ曖昧な感想はできるだけ避けるべきでしょう。
作者のバックグラウンドの作品への影響について、常識の範囲内で多少言及してもいいですが、あまりにも個人的、主観的と思われる突っ込んだ意見は避けるべきです。
作家の代表作を研究者が選ぶ場合、発行部数が最大の最も売れた作品だとか、文学賞受賞の史実がある作品など、客観的データに基づいて判断すべきです。
ただし学術論文とは別に「自分が個人的に好きな作品は〇〇だ」と感想を述べることは自由でしょう。
2019年5月9日木曜日
NHKの未来を提言
さて、地方選挙などで最近、「NHKから国民を守る党」が躍進しているようです。
「NHKをぶっ壊す」でお馴染みの立花孝志氏の人気YouTube動画が影響していると思われます。
NHKにかぎらず、完全な民間企業でもなく、役所でもない第三セクターや特殊法人の存在を私はかねてから疑問視しています。
たとえば日本銀行もNHKと同じです。株主がいる民間企業でありながら、独占的に日本の銀行券を発行しています。そして世間一般の人は日銀が民間企業であることに気づいていません。
ベンジャミン・フルフォード氏など陰謀論系ジャーナリストたちの多くは、日銀を完全に国有化すべきと唱えています。
NHKは受信料という”実質テレビ税”を主な収益源にしています。厳密にはBS放送は契約者だけ受信料を徴収し、地上波はテレビ保有者から半ば強制的に徴収します。
最近ではPC、スマホ、カーナビからテレビを視聴できることから、これらの保有者からも受信料を徴収できる制度が検討されています。
まずNHKありき、という発想が行政にはあるようですが、これに私は強く反対します。
行政がNHKを保護しようとする最大の理由は、おそらく「大本営発表」機能を確保したいからでしょう。大手マスコミが政府と癒着すれば、必要に応じて世論を情報操作できます。
大手広告代理店の電通、大手通信社、日本新聞協会、記者クラブ、地上波民間キー局とともに、NHKは情報操作の有力拠点です。
しかしながら、政府の情報操作は民主主義に反しています。私は政府はサイトなどで広報発表のみ行い、マスメディアは中小の民間組織だけにすべきだと思います。
たとえば地方新聞や日刊ゲンダイなどは、大新聞にくらべ、行政に批判的な記事を比較的自由に書ける、と多くの陰謀論系ジャーナリストたちは主張します。また彼らの個人ブログなどもジャーナリズムの役割を果たしています。
私はNHKの分割民営化を提言したいと思います。NHKを分割し一部を民間企業、残りを一般財源で運営する市営法人にするのです。BS放送はWOWOW同様、民間テレビ局でいいでしょう。
まずNHKを最初は都道府県、次いで市町村に分割し、市の税金で運営する市営法人にします。市町村ごとにテレビ局を作るのです。
またこの市営法人は市町村の箱物の地下室あたりに巨大サーバーを設置します。このサーバーで現在、グーグルがやっているサービスを行うのです。
市内のマップのストリートヴューはどう考えても民間企業でなく、行政がやるべき仕事でしょう。
YouTubeのような動画も市営サーバーが管理します。テレビ放送局でなく、動画配信局をマスメディアの中心にしてもいいでしょう。税金で運営する市営動画の場合は広報発表のみを行い、娯楽番組は作りません。市内の民間人が番組を持つ場合のみ、娯楽番組を配信できます。
その他、検索エンジン、WEBメール、ショッピングサイト、SNS、WiKiなども市営で運営するのはどうでしょう。市営ですので検索エンジンでもショッピングサイトでも市内企業を優先して表示し、農業だけでなく工業製品も含めた全産業の地産地消を目指してもいいでしょう。
税金で運営する他、サイトの広告料で資金を稼ぐ方法も考えられます。
「NHKをぶっ壊す」でお馴染みの立花孝志氏の人気YouTube動画が影響していると思われます。
NHKにかぎらず、完全な民間企業でもなく、役所でもない第三セクターや特殊法人の存在を私はかねてから疑問視しています。
たとえば日本銀行もNHKと同じです。株主がいる民間企業でありながら、独占的に日本の銀行券を発行しています。そして世間一般の人は日銀が民間企業であることに気づいていません。
ベンジャミン・フルフォード氏など陰謀論系ジャーナリストたちの多くは、日銀を完全に国有化すべきと唱えています。
NHKは受信料という”実質テレビ税”を主な収益源にしています。厳密にはBS放送は契約者だけ受信料を徴収し、地上波はテレビ保有者から半ば強制的に徴収します。
最近ではPC、スマホ、カーナビからテレビを視聴できることから、これらの保有者からも受信料を徴収できる制度が検討されています。
まずNHKありき、という発想が行政にはあるようですが、これに私は強く反対します。
行政がNHKを保護しようとする最大の理由は、おそらく「大本営発表」機能を確保したいからでしょう。大手マスコミが政府と癒着すれば、必要に応じて世論を情報操作できます。
大手広告代理店の電通、大手通信社、日本新聞協会、記者クラブ、地上波民間キー局とともに、NHKは情報操作の有力拠点です。
しかしながら、政府の情報操作は民主主義に反しています。私は政府はサイトなどで広報発表のみ行い、マスメディアは中小の民間組織だけにすべきだと思います。
たとえば地方新聞や日刊ゲンダイなどは、大新聞にくらべ、行政に批判的な記事を比較的自由に書ける、と多くの陰謀論系ジャーナリストたちは主張します。また彼らの個人ブログなどもジャーナリズムの役割を果たしています。
私はNHKの分割民営化を提言したいと思います。NHKを分割し一部を民間企業、残りを一般財源で運営する市営法人にするのです。BS放送はWOWOW同様、民間テレビ局でいいでしょう。
まずNHKを最初は都道府県、次いで市町村に分割し、市の税金で運営する市営法人にします。市町村ごとにテレビ局を作るのです。
またこの市営法人は市町村の箱物の地下室あたりに巨大サーバーを設置します。このサーバーで現在、グーグルがやっているサービスを行うのです。
市内のマップのストリートヴューはどう考えても民間企業でなく、行政がやるべき仕事でしょう。
YouTubeのような動画も市営サーバーが管理します。テレビ放送局でなく、動画配信局をマスメディアの中心にしてもいいでしょう。税金で運営する市営動画の場合は広報発表のみを行い、娯楽番組は作りません。市内の民間人が番組を持つ場合のみ、娯楽番組を配信できます。
その他、検索エンジン、WEBメール、ショッピングサイト、SNS、WiKiなども市営で運営するのはどうでしょう。市営ですので検索エンジンでもショッピングサイトでも市内企業を優先して表示し、農業だけでなく工業製品も含めた全産業の地産地消を目指してもいいでしょう。
税金で運営する他、サイトの広告料で資金を稼ぐ方法も考えられます。
2018年12月2日日曜日
旧2ちゃんねる 鮫島事件の真相について
ミクシーで2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の”鮫島事件”についてニュースになりました。
大昔の話で何をいまさら、と思うのですが、公式には鮫島事件は存在していない事件ということになっているようです。ミクシーでもウィキペディアでもそうなっています。
鮫島事件および2ちゃんねるが流行っていたころ、ウィキペディアで調べたら、後で説明する「痛い、痛い、擦りむいた」の解説が出ていました。いつの間にかウィキペディアも書き換えられたものと思われます。
鮫島事件の真相は何か。以下、個人的見解を述べます。
1.鮫島事件=小泉事件
鮫島事件が2ちゃんねるで流行ったころ、日本は小泉政権下でした。
首相、小泉純一郎氏の過去のスキャンダルが鮫島事件だとすると、すべてはすっきり説明できます。
現職の内閣総理大臣のトップシークレットを知った者は権力側から抹殺されるのでは。こうした推測から、「鮫島事件には触れるな」といった言い方が2ちゃんねるで流行ったのだと思われます。
小泉純一郎氏が慶応大学の学生時代、芸者とエッチしてる最中に絞殺してしまいました。小泉氏にはサド的な性癖があったようです。
普通なら殺人罪になるところが、当時、小泉氏の父親が防衛庁長官。裁判では小泉氏が精神病を患っていたということで無罪になり、松沢病院に1か月入院し、その後、イギリスに留学しました。
この裁判を担当した裁判長が、小泉氏の叔父さんにあたる鮫島氏。だから鮫島事件なのです。
おそらくこれが鮫島事件の真相でしょう。
2.「痛い、痛い、擦りむいた」事件
さて、上記の鮫島事件の真相を隠すべく、政府から2ちゃんねる運営局に何らかの圧力がかかったのではないでしょうか。
ネットで話題の鮫島事件を小泉氏のスキャンダルとは別の事件にすり替える方法はないか。そこで選ばれたのが2ちゃんねるのスレ「痛い、痛い、擦りむいた」だったのです。
ところで「ケツ毛バーガー事件」を覚えているでしょうか。
ミクシーが台頭し、2ちゃんねるに替わって日本のSNSのトップになろうとするタイミングで起きた事件です。今から思えば2ちゃんねる運営局がミクシーを貶めるために企画した”やらせ”事件だったのでは、と推測します。
同様に過去に”あめぞう”というBBSがあり、2ちゃんねるがあめぞうにとって替わろうとしたとき、片方がもう片方を攻撃する目的で起きた”やらせ”事件。それが「痛い、痛い、擦りむいた」のスレです。
「痛い、痛い、擦りむいた」というスレでは、最初、二人の若い男性がひょんなことからスレ上でけんかになります。そのうちに実際に会って決闘しようということになり、場所と日時を決めます。
記憶は曖昧ですが、柏駅か新松戸駅あたりの駅前ロータリーが決闘の場所だったのではないかと思います。
そして決闘の日時になると複数のスレの住民たちが、駅前ロータリーが見渡せる喫茶店にノートPCを持ち込んでスタンバイ。決闘の様子を2ちゃんねるで実況中継します。
二人のうち片方だけが刃物を持った四、五人の仲間を連れてきます。多勢に無勢で一人だけの方が簡単にやられて死んでしまいます。
それを逐一細かく実況するのですが、警察に通報すべきでは、という良識派の書き込みがそれに混ざります。
当時、”電車男”で一世を風靡した2ちゃんねる。おそらくプロ作家がスレ形式で書いた小説だと思いますが、この「痛い、痛い、擦りむいた」というスレも、つまらないホラー小説よりもはるかによくできた読み物です。読んでいて読者を飽きさせずにぐいぐい引き込む筆致は、とても2ちゃんねるの普通のスレとは思えません。おそらく放送作家の見習いあたりに書かせたのではないでしょうか。
このスレ小説の内容を実際に起きたものとして鮫島事件にすり替えようと2ちゃんねる運営局は画策したのだと思いますが、いかんせん、なぜこれが”鮫島”なのかが釈然としません。
3.無人島の鮫島の白骨死体
そこで登場したのが無人島鮫島のスレです。
鮫島という無人島に四、五人の2ちゃんねらーが冒険に出かけたところ、白骨死体を発見した。そのまま自分たちも遭難して白骨死体になってしまう、という設定のスレです。
これなら確かに”鮫島”事件ですが、「痛い、痛い、擦りむいた」にくらべるとスレ小説に迫力がありません。
あらすじ自体は怖いストーリーですが、文章に緊迫感がなく、なぜこれが大騒ぎするほどの鮫島事件なのかが、読者側から理解できません。
しかしながら、現在ではこれが公式的には一番世に知られた鮫島事件にされているようです。
(了)
大昔の話で何をいまさら、と思うのですが、公式には鮫島事件は存在していない事件ということになっているようです。ミクシーでもウィキペディアでもそうなっています。
鮫島事件および2ちゃんねるが流行っていたころ、ウィキペディアで調べたら、後で説明する「痛い、痛い、擦りむいた」の解説が出ていました。いつの間にかウィキペディアも書き換えられたものと思われます。
鮫島事件の真相は何か。以下、個人的見解を述べます。
1.鮫島事件=小泉事件
鮫島事件が2ちゃんねるで流行ったころ、日本は小泉政権下でした。
首相、小泉純一郎氏の過去のスキャンダルが鮫島事件だとすると、すべてはすっきり説明できます。
現職の内閣総理大臣のトップシークレットを知った者は権力側から抹殺されるのでは。こうした推測から、「鮫島事件には触れるな」といった言い方が2ちゃんねるで流行ったのだと思われます。
小泉純一郎氏が慶応大学の学生時代、芸者とエッチしてる最中に絞殺してしまいました。小泉氏にはサド的な性癖があったようです。
普通なら殺人罪になるところが、当時、小泉氏の父親が防衛庁長官。裁判では小泉氏が精神病を患っていたということで無罪になり、松沢病院に1か月入院し、その後、イギリスに留学しました。
この裁判を担当した裁判長が、小泉氏の叔父さんにあたる鮫島氏。だから鮫島事件なのです。
おそらくこれが鮫島事件の真相でしょう。
2.「痛い、痛い、擦りむいた」事件
さて、上記の鮫島事件の真相を隠すべく、政府から2ちゃんねる運営局に何らかの圧力がかかったのではないでしょうか。
ネットで話題の鮫島事件を小泉氏のスキャンダルとは別の事件にすり替える方法はないか。そこで選ばれたのが2ちゃんねるのスレ「痛い、痛い、擦りむいた」だったのです。
ところで「ケツ毛バーガー事件」を覚えているでしょうか。
ミクシーが台頭し、2ちゃんねるに替わって日本のSNSのトップになろうとするタイミングで起きた事件です。今から思えば2ちゃんねる運営局がミクシーを貶めるために企画した”やらせ”事件だったのでは、と推測します。
同様に過去に”あめぞう”というBBSがあり、2ちゃんねるがあめぞうにとって替わろうとしたとき、片方がもう片方を攻撃する目的で起きた”やらせ”事件。それが「痛い、痛い、擦りむいた」のスレです。
「痛い、痛い、擦りむいた」というスレでは、最初、二人の若い男性がひょんなことからスレ上でけんかになります。そのうちに実際に会って決闘しようということになり、場所と日時を決めます。
記憶は曖昧ですが、柏駅か新松戸駅あたりの駅前ロータリーが決闘の場所だったのではないかと思います。
そして決闘の日時になると複数のスレの住民たちが、駅前ロータリーが見渡せる喫茶店にノートPCを持ち込んでスタンバイ。決闘の様子を2ちゃんねるで実況中継します。
二人のうち片方だけが刃物を持った四、五人の仲間を連れてきます。多勢に無勢で一人だけの方が簡単にやられて死んでしまいます。
それを逐一細かく実況するのですが、警察に通報すべきでは、という良識派の書き込みがそれに混ざります。
当時、”電車男”で一世を風靡した2ちゃんねる。おそらくプロ作家がスレ形式で書いた小説だと思いますが、この「痛い、痛い、擦りむいた」というスレも、つまらないホラー小説よりもはるかによくできた読み物です。読んでいて読者を飽きさせずにぐいぐい引き込む筆致は、とても2ちゃんねるの普通のスレとは思えません。おそらく放送作家の見習いあたりに書かせたのではないでしょうか。
このスレ小説の内容を実際に起きたものとして鮫島事件にすり替えようと2ちゃんねる運営局は画策したのだと思いますが、いかんせん、なぜこれが”鮫島”なのかが釈然としません。
3.無人島の鮫島の白骨死体
そこで登場したのが無人島鮫島のスレです。
鮫島という無人島に四、五人の2ちゃんねらーが冒険に出かけたところ、白骨死体を発見した。そのまま自分たちも遭難して白骨死体になってしまう、という設定のスレです。
これなら確かに”鮫島”事件ですが、「痛い、痛い、擦りむいた」にくらべるとスレ小説に迫力がありません。
あらすじ自体は怖いストーリーですが、文章に緊迫感がなく、なぜこれが大騒ぎするほどの鮫島事件なのかが、読者側から理解できません。
しかしながら、現在ではこれが公式的には一番世に知られた鮫島事件にされているようです。
(了)
2018年7月14日土曜日
青空文庫 2018年1月11日公開 李箱の詩について
2018年1月11日、青空文庫に李箱(イ・サン)の詩が複数公開されました。
これまで李箱の存在は知らなかったのですが、韓国では有名な詩人、小説家とのこと。
本来、韓国語で作品を書いているようですが、今回公開されたのはすべて日本語で書かれた作品です。
一読した感想は、一言で言って、”抑制のきいた上質の前衛文学”といったところです。
ここで教科書的な解説です。
フランス文学史では前衛文学のムーヴメントは2回あります。1回目は19世紀末から20世紀初頭のアポリネールを中心とするシュールレアリズムやダダイズムのムーヴメント。2回目は戦後、サルトルおよびそれ以降のヌーボロマンのムーヴメント。
一方、アメリカ文学では戦後、バロウズなどのビートゼネレーションのムーヴメントがあります。
このうちフランス文学のシュールレアリズムとアメリカ文学のビートゼネレーションはいずれも文学というより、絵画、造形、音楽といった”非文学”のアーティストたちのムーヴメントで、その中にたまたま詩人が紛れ込んで前衛文学を発表しました。このため、これまでの文学の常識を逸脱した表現が特徴的と言えます。
一方、ヌーボロマンは文学を構造的に分析、研究した上で前衛を試みた、コテコテの活字メディアの前衛文学でした。
80年代のマルケスやボルヘスらの前衛ラテン文学は、どちらかと言えばこのヌーボロマンの系譜につながるものでしょう。
李箱は前者、つまりアポリネールやバロウズたちが試みた前衛文学に分類できると思います。つまり、前衛アートとしての文学です。
時代的にも戦前の詩人ですので、李箱自身もダダイズムを意識的に目指していたのかもしれません。
学生時代、現代詩手帖を購読し、寺山修司のアングラ芝居や実験映画にたしなみ、安部公房の前衛小説を読み、70年代のブリティッシュプログレを聴きまくり、エッシャーの展覧会に足を運び、さらにはカルトムービーのメッカ、四谷のイメージフォーラムの常連だった私は、筋金入りの前衛芸術オタクです。
その私から言わせれば、バブル時代にもてはやされた現代詩にくらべ、李箱の詩はいい意味で抑制がきいているように思えるのです。
完成度の高い前衛文学、というのとは少し違いますが、現代詩の悪い意味での支離滅裂やカオスがなく、虚無的または厭世的な基調低音で作品がまとめられています。
今回、公開された作品の中で一番注目したのは「AU MAGASIN DE NOUVEAUTES」でしょうか。
フランス語で「新しいお店にて」といった意味になるようです。詩は日本語で書かれますが、随所に中国語の単語が出てきます。
母国語が韓国語の李箱にとり、タイトルのフランス語も本文の日本語や中国語も外国語のはずです。
もしかしたら李箱は意図的に多国籍言語で作品を書いたのかもしれません。
作品を一貫して流れるトートロジー的表現もまた、言語を超越したところにある詩を目指していたのかもしれません。
李箱の詩を私は完全には理解していませんが、無意識のレベルで漠然と”好感”を持ちました。
日帝植民地時代の朝鮮に生きた李白。政治的抑圧感や反体制的メッセージをそこに読むことはできるでしょうが、前衛文学を志す以上、作者の関心は半分以上、文学上の方法論にあったのではないかと想像します。
これまで李箱の存在は知らなかったのですが、韓国では有名な詩人、小説家とのこと。
本来、韓国語で作品を書いているようですが、今回公開されたのはすべて日本語で書かれた作品です。
一読した感想は、一言で言って、”抑制のきいた上質の前衛文学”といったところです。
ここで教科書的な解説です。
フランス文学史では前衛文学のムーヴメントは2回あります。1回目は19世紀末から20世紀初頭のアポリネールを中心とするシュールレアリズムやダダイズムのムーヴメント。2回目は戦後、サルトルおよびそれ以降のヌーボロマンのムーヴメント。
一方、アメリカ文学では戦後、バロウズなどのビートゼネレーションのムーヴメントがあります。
このうちフランス文学のシュールレアリズムとアメリカ文学のビートゼネレーションはいずれも文学というより、絵画、造形、音楽といった”非文学”のアーティストたちのムーヴメントで、その中にたまたま詩人が紛れ込んで前衛文学を発表しました。このため、これまでの文学の常識を逸脱した表現が特徴的と言えます。
一方、ヌーボロマンは文学を構造的に分析、研究した上で前衛を試みた、コテコテの活字メディアの前衛文学でした。
80年代のマルケスやボルヘスらの前衛ラテン文学は、どちらかと言えばこのヌーボロマンの系譜につながるものでしょう。
李箱は前者、つまりアポリネールやバロウズたちが試みた前衛文学に分類できると思います。つまり、前衛アートとしての文学です。
時代的にも戦前の詩人ですので、李箱自身もダダイズムを意識的に目指していたのかもしれません。
学生時代、現代詩手帖を購読し、寺山修司のアングラ芝居や実験映画にたしなみ、安部公房の前衛小説を読み、70年代のブリティッシュプログレを聴きまくり、エッシャーの展覧会に足を運び、さらにはカルトムービーのメッカ、四谷のイメージフォーラムの常連だった私は、筋金入りの前衛芸術オタクです。
その私から言わせれば、バブル時代にもてはやされた現代詩にくらべ、李箱の詩はいい意味で抑制がきいているように思えるのです。
完成度の高い前衛文学、というのとは少し違いますが、現代詩の悪い意味での支離滅裂やカオスがなく、虚無的または厭世的な基調低音で作品がまとめられています。
今回、公開された作品の中で一番注目したのは「AU MAGASIN DE NOUVEAUTES」でしょうか。
フランス語で「新しいお店にて」といった意味になるようです。詩は日本語で書かれますが、随所に中国語の単語が出てきます。
母国語が韓国語の李箱にとり、タイトルのフランス語も本文の日本語や中国語も外国語のはずです。
もしかしたら李箱は意図的に多国籍言語で作品を書いたのかもしれません。
作品を一貫して流れるトートロジー的表現もまた、言語を超越したところにある詩を目指していたのかもしれません。
李箱の詩を私は完全には理解していませんが、無意識のレベルで漠然と”好感”を持ちました。
日帝植民地時代の朝鮮に生きた李白。政治的抑圧感や反体制的メッセージをそこに読むことはできるでしょうが、前衛文学を志す以上、作者の関心は半分以上、文学上の方法論にあったのではないかと想像します。
2018年6月10日日曜日
トロン陰謀論について
さて、数年前、リチャード・コシミズ氏のブログに「トロン陰謀論」について情報を持っている人の意見を募集していました。
日航機123便にトロン関係の技術者が搭乗していて、PC市場でのトロンの普及を阻止すべく、米国が無人機を衝突させて123便を墜落させたのでは、という仮説です。
私自身、陰謀論に関する情報は何も持っていないので、そのときは回答できませんでしたが、とりあえず知っている情報だけをまとめて意見を述べてみようと思います。
まず「トロン陰謀論」の結論からすると以下の通りです。
①トロンが国内市場または世界市場でPCの標準OSにならないよう、米国が政治的圧力をかけた?
②日航機123便墜落以降、結果的にトロンは衰退した?
①はYES、②はNo、③はわかりません。これが私の回答です。
1. 米国の政治的圧力とトロン
まず①についてですが、これは陰謀論でもなんでもなく、私が90年代初めに読んだ市販の本に書いてありました。それも政治や陰謀論の本ではなく、PC業界のビジネス書です。
日米半導体協定のときに、米国商務省としてはユニックスをコンピュータの世界標準OSにしたいため、その対抗馬となる日本のトロンを普及させないよう政治的圧力をかけたとのこと。
そのビジネス書には前書きか第一章にさりげなく簡潔にそう書いてあっただけで、それ以降はユニックスの技術的な特徴について解説していました。
ここで注目すべきは米国政府はウインドウズでなくユニックスを標準OSと予想していたことです。
当時、ユニックスはIBM社とサンマイクロシステムズ社の二大陣営に派閥が分かれており、いずれかのユニックスがコンピュータの標準OSになると誰もが考えていました。ところがマイクロソフト社がウインドウズNTを開発すると状況が一転、IBM社とサンマイクロシステムズ社は対立を解消しましたが、時すでに遅し。マイクロソフト社のウインドウズがOSのデファクトスタンダードになってしましました。
私がここで主張したいのは、ITやエレクトロニクスのデファクトスタンダードは日本対米国といった国家間だけでなく、民間企業間の対立や、さらには官対民の確執もあるということです。
2. μITRONの活躍
次に②ですが、トロンが世間で最も騒がれた時期はいつでしょうか。私の記憶では日航機墜落の数年後だったと思います。
日航機墜落は1985年。その二年後に1987年だったと思いますが週刊朝日でトロン特集をやっていました。技術用語であるトロンが一般マスコミの週刊朝日に取り上げられたのです。私の記憶ではこのあたりが一般マスコミのトロンブームのピークです。
一般マスコミのトロンブームは90年くらいにはすでに消滅していたと思います。しかし業界内のトロンの普及はこのあたりから始動します。
実はトロンはもともと組み込みOSです(当時はリアルタイムOSという呼び方が一般的だったでしょうか)。
それが当時の通産省(現在の経済産業省)の思惑で本来の組み込みOSをIトロンとし、ビジネス向けのBトロンや通信向けのCトロンなど、トロンの概念を無理やり拡張し、国産OSのトロンであらゆるジャンルを網羅しようとしたのです。
Iトロン以外のトロンは時間がたつごとに自動消滅した感がありますが、肝心のIトロンは一般マスコミがトロンを報じなくなってから、組み込みマイコン市場で躍進したのです。
μITRON2.0準拠という記述を私はいたるところで目にした気がします。
国内メーカーのセットトップボックスをはじめ、32ビットマイコンのリアルタイムOSとしてトロンはシェアを広げました。
90年代、トロンはリアルタイムOS分野では世界市場でPSOS、Wind riverに次いで三番目で15~20%前後、国内市場では80%のトップシェアでいわゆる内弁慶型でした。PCではウインドウズがガリバー型寡占でシェアを独占していますが、リアルタイムOS市場は小党分立で、上記ベスト3以降は、様々な無数のOSが群雄割拠している状態でした。
トロンはハイエンドのTカーネル、ローエンドのトッパーズというふうに大別され、いずれも国内電機メーカーには積極的に採用されました。
ネットでは日航機123便にトロン関連技術者が17人乗っていたという記述を複数個所から目にします。私にはその真偽はわかりません。しかしながら、トロンの真の全盛期は日航機墜落から10年たった90年代だと言えることはまちがいありません。
3. 8ビット、16ビット向けトロンの開発を
しかしながら組み込みリナックスの発展で、今日ではトロンは衰退しました。
ここからは私個人の提案ですが、32ビットでなく、8ビットや16ビットのマイコン向けにトロンを改良するのはどうでしょうか。
トッパーズは組み込みプログラマから見ればOSというより、C言語のライブラリです。
スマホが普及し、32ビットARMが普及した昨今、組み込みOSもアンドロイドやiOSのようなPC向けOSに近いものであることが求められ、トロンは時代遅れになりました。
しかしながら、8ビットや16ビットマイコンの用途はたくさんありますし、特に16ビットDSPは、32ビットARMと比べ、処理能力的に大きく負けているわけではありません。
国産マイコンに軒並みトロンをポーティングし、国内中小零細メーカーが容易に製品を開発できるよう、支援するのはどうでしょうか。
日航機123便にトロン関係の技術者が搭乗していて、PC市場でのトロンの普及を阻止すべく、米国が無人機を衝突させて123便を墜落させたのでは、という仮説です。
私自身、陰謀論に関する情報は何も持っていないので、そのときは回答できませんでしたが、とりあえず知っている情報だけをまとめて意見を述べてみようと思います。
まず「トロン陰謀論」の結論からすると以下の通りです。
①トロンが国内市場または世界市場でPCの標準OSにならないよう、米国が政治的圧力をかけた?
②日航機123便墜落以降、結果的にトロンは衰退した?
③日航機123便にトロン関係の技術者が搭乗していた?
①はYES、②はNo、③はわかりません。これが私の回答です。
1. 米国の政治的圧力とトロン
まず①についてですが、これは陰謀論でもなんでもなく、私が90年代初めに読んだ市販の本に書いてありました。それも政治や陰謀論の本ではなく、PC業界のビジネス書です。
日米半導体協定のときに、米国商務省としてはユニックスをコンピュータの世界標準OSにしたいため、その対抗馬となる日本のトロンを普及させないよう政治的圧力をかけたとのこと。
そのビジネス書には前書きか第一章にさりげなく簡潔にそう書いてあっただけで、それ以降はユニックスの技術的な特徴について解説していました。
ここで注目すべきは米国政府はウインドウズでなくユニックスを標準OSと予想していたことです。
当時、ユニックスはIBM社とサンマイクロシステムズ社の二大陣営に派閥が分かれており、いずれかのユニックスがコンピュータの標準OSになると誰もが考えていました。ところがマイクロソフト社がウインドウズNTを開発すると状況が一転、IBM社とサンマイクロシステムズ社は対立を解消しましたが、時すでに遅し。マイクロソフト社のウインドウズがOSのデファクトスタンダードになってしましました。
私がここで主張したいのは、ITやエレクトロニクスのデファクトスタンダードは日本対米国といった国家間だけでなく、民間企業間の対立や、さらには官対民の確執もあるということです。
2. μITRONの活躍
次に②ですが、トロンが世間で最も騒がれた時期はいつでしょうか。私の記憶では日航機墜落の数年後だったと思います。
日航機墜落は1985年。その二年後に1987年だったと思いますが週刊朝日でトロン特集をやっていました。技術用語であるトロンが一般マスコミの週刊朝日に取り上げられたのです。私の記憶ではこのあたりが一般マスコミのトロンブームのピークです。
一般マスコミのトロンブームは90年くらいにはすでに消滅していたと思います。しかし業界内のトロンの普及はこのあたりから始動します。
実はトロンはもともと組み込みOSです(当時はリアルタイムOSという呼び方が一般的だったでしょうか)。
それが当時の通産省(現在の経済産業省)の思惑で本来の組み込みOSをIトロンとし、ビジネス向けのBトロンや通信向けのCトロンなど、トロンの概念を無理やり拡張し、国産OSのトロンであらゆるジャンルを網羅しようとしたのです。
Iトロン以外のトロンは時間がたつごとに自動消滅した感がありますが、肝心のIトロンは一般マスコミがトロンを報じなくなってから、組み込みマイコン市場で躍進したのです。
μITRON2.0準拠という記述を私はいたるところで目にした気がします。
国内メーカーのセットトップボックスをはじめ、32ビットマイコンのリアルタイムOSとしてトロンはシェアを広げました。
90年代、トロンはリアルタイムOS分野では世界市場でPSOS、Wind riverに次いで三番目で15~20%前後、国内市場では80%のトップシェアでいわゆる内弁慶型でした。PCではウインドウズがガリバー型寡占でシェアを独占していますが、リアルタイムOS市場は小党分立で、上記ベスト3以降は、様々な無数のOSが群雄割拠している状態でした。
トロンはハイエンドのTカーネル、ローエンドのトッパーズというふうに大別され、いずれも国内電機メーカーには積極的に採用されました。
3. 8ビット、16ビット向けトロンの開発を
しかしながら組み込みリナックスの発展で、今日ではトロンは衰退しました。
ここからは私個人の提案ですが、32ビットでなく、8ビットや16ビットのマイコン向けにトロンを改良するのはどうでしょうか。
トッパーズは組み込みプログラマから見ればOSというより、C言語のライブラリです。
スマホが普及し、32ビットARMが普及した昨今、組み込みOSもアンドロイドやiOSのようなPC向けOSに近いものであることが求められ、トロンは時代遅れになりました。
しかしながら、8ビットや16ビットマイコンの用途はたくさんありますし、特に16ビットDSPは、32ビットARMと比べ、処理能力的に大きく負けているわけではありません。
国産マイコンに軒並みトロンをポーティングし、国内中小零細メーカーが容易に製品を開発できるよう、支援するのはどうでしょうか。
2018年4月5日木曜日
プロ文芸評論家不要論
ネットサーフィンすると、評論家不要論が目立ちます。
ネットで普通の人が不特定多数の大衆に自由に発言できるようになった今日、あえて専門家の意見だけを特別扱して拝聴する必要があるのか。こういう意見がネット上に散見します。
もちろんこれとは真逆の意見、すなわち、無知な一般大衆が評論家気取りで素人意見を述べるのは言語道断だ、といった主張もあります。ただこうした評論家擁護論はネット上では少数派のようです。
政治評論家、音楽評論家、映画評論家、ラノベ評論家はそれぞれ不要といった不要論を私はこれまでネット上に見つけました。
しかしながら、文芸評論家に関しては唯一、擁護する意見の方が根強いようです。同じ小説でもラノベは評論家不要で、一般小説だけ評論家が必要なのでしょうか。
1.アマゾンの消費者行動にみる文芸評論家の立ち位置
アマゾンなどネットで書籍を購入する場合、すでにその本を読んだ人の書評を読むことができます。私たちがその本を購入するかどうかを決めるのに、こうした書評が参考になることがあります。
ところでアマゾンの書評を書いているのは誰でしょうか。一般にプロの評論家でなく、私たちと同じアマチュアの読者と言っていいでしょう。
同じ書籍でも特に小説の場合、一般消費者目線の感想の方が、専門家の見解より自分にはしっくりくる。そう思う人が多数派なのではないでしょうか。
プロの文芸評論家は普通の人より、様々な文芸作品を多読し、難解な哲学書や原書を理解し、海外留学など高い学歴を持っているかもしれないが、彼らと同じくらい見識を積まなければ彼らの境地に至るのは不可能だろうし、むしろ自分と等身大の人が面白いと思う小説が、単純に、自分が読んでも面白いのではないか。
アマゾンで小説を買う際、一般消費者がこうした考えで消費行動を起こしているとしたら、やはりプロ文芸評論家は不要ということになります。
2.文壇内の文芸評論家不要論
ネットで発見したのですが、保坂和志、高橋源一郎の両氏が文芸雑誌で文芸評論家不要論を唱えたとのこと。自分で小説を書いてない評論家は、小説を評論する資格がない、というようなことを述べたようです。
両氏とも小説家兼評論家ですので、自分たちは評論する資格があるという意味なのでしょうか。
いずれにせよ、文壇内からこうした意見が出てくるのは興味深いと思います。
これに対し、既存の文芸評論家から反論もあったようです。
また例によって、この業界特有の”言葉遊び”的なわけのわからない議論の応酬が、相も変わらず両者の間でなされたのではないかと想像します。
私自身は文壇において文芸評論家が不要なのかどうかわかりません。ただし、文芸評論家に対して昔から物申したいことが一つあります。
2.よい文章のドグマは三種類?
ところでよい文章とは何でしょうか。実は業界ごとによい文章、悪い文章の基準が異なるように思えます。私が知るかぎり以下の三種類の文章ドグマがあるように思えるのです。
①文学・哲学の文章ドグマ
頭がいい筆者ほど語彙力が豊富なので難しい文章が書ける。難しい文章を読んで意味がわからない読者は頭が悪い。言葉は数学の記号と違い、抽象的で曖昧な概念を持つが、この言葉の性質を極力生かして文章を書くべき。
②法律・省令・公文書の文章ドグマ
よい文章とは決められた表記と表現を用い、言葉の持つ曖昧さを極力排除した論理的かつ客観的文章を指す。したがって読者が正しく文章を理解すれば、数学の問題を正しく理解するのと同様、ほぼ完全に一致した内容を取得できる。ただしこれらの文章は、世間一般の平均的知能の持ち主には理解できない難解さがある。
③ビジネス・世間一般の文章ドグマ
わかりやすい文章ほどよい文章。わかりにくい文章は悪い文章。頭のいい筆者ほど難しい概念をわかりやすく簡潔に表現できる。逆にわかりにくい文章しか書けない筆者は頭が悪い。
どのドグマが正しいか、一概には言えません。
文芸評論家は①のドグマを信奉して文章を書きます。小説でも詩歌でも言葉の持つ曖昧さを武器に芸術作品を作るわけですから、創作の文章を書く際、①でなければ成立しないジャンルですが、評論までこれと同じでなければならないのでしょうか。
彼らはなぜ②または③のドグマで文章を書かないのでしょうか。
80年代末のことですが、小林秀雄が亡くなったとき、朝日新聞の書評で、小林秀雄の評論はこれからも作品として価値を持つといったことが書かれていました。
評論が作品? 何かトートロジーのような気がします。
ここからは私の解釈ですが、これは小林秀雄の文章が難解であることを短所でなく、長所として捉えた追悼文だったのではないかと思います。
世の中にはスタニスワム・レムの『完全な真空』や筒井康隆の『文学部唯野教授』といった作品があります。評論のスタイルをとった小説です。
もし作品としての価値を持たせたいなら、評論ではなくこうした作品を書くべきではないでしょうか。
思想書や哲学書はともかく、純粋な評論はあくまで小説という対象に対して書かれるべきものだからです。
こうした理由から、私は②または③、特に③のわかりやすい文章で書かれた文芸評論がもっと世に出てきてほしい、と考えています。
3.文芸評論もアマチュアリズムで
私の結論としては、プロの文芸評論家はもっとわかりやすい文章で書いてほしいと思いますし、文芸評論の書籍が一般に売れないのは、何が書いてあるかわからないからだと思います。
その一方で、アマチュアの評論は何を書いても自由です。
ただし読者の方では、これはあくまで素人意見で、まちがっているかもしれないと疑いながらアマゾンの書評を読む必要があるでしょう。
ネットで普通の人が不特定多数の大衆に自由に発言できるようになった今日、あえて専門家の意見だけを特別扱して拝聴する必要があるのか。こういう意見がネット上に散見します。
もちろんこれとは真逆の意見、すなわち、無知な一般大衆が評論家気取りで素人意見を述べるのは言語道断だ、といった主張もあります。ただこうした評論家擁護論はネット上では少数派のようです。
政治評論家、音楽評論家、映画評論家、ラノベ評論家はそれぞれ不要といった不要論を私はこれまでネット上に見つけました。
しかしながら、文芸評論家に関しては唯一、擁護する意見の方が根強いようです。同じ小説でもラノベは評論家不要で、一般小説だけ評論家が必要なのでしょうか。
1.アマゾンの消費者行動にみる文芸評論家の立ち位置
アマゾンなどネットで書籍を購入する場合、すでにその本を読んだ人の書評を読むことができます。私たちがその本を購入するかどうかを決めるのに、こうした書評が参考になることがあります。
ところでアマゾンの書評を書いているのは誰でしょうか。一般にプロの評論家でなく、私たちと同じアマチュアの読者と言っていいでしょう。
同じ書籍でも特に小説の場合、一般消費者目線の感想の方が、専門家の見解より自分にはしっくりくる。そう思う人が多数派なのではないでしょうか。
プロの文芸評論家は普通の人より、様々な文芸作品を多読し、難解な哲学書や原書を理解し、海外留学など高い学歴を持っているかもしれないが、彼らと同じくらい見識を積まなければ彼らの境地に至るのは不可能だろうし、むしろ自分と等身大の人が面白いと思う小説が、単純に、自分が読んでも面白いのではないか。
アマゾンで小説を買う際、一般消費者がこうした考えで消費行動を起こしているとしたら、やはりプロ文芸評論家は不要ということになります。
2.文壇内の文芸評論家不要論
ネットで発見したのですが、保坂和志、高橋源一郎の両氏が文芸雑誌で文芸評論家不要論を唱えたとのこと。自分で小説を書いてない評論家は、小説を評論する資格がない、というようなことを述べたようです。
両氏とも小説家兼評論家ですので、自分たちは評論する資格があるという意味なのでしょうか。
いずれにせよ、文壇内からこうした意見が出てくるのは興味深いと思います。
これに対し、既存の文芸評論家から反論もあったようです。
また例によって、この業界特有の”言葉遊び”的なわけのわからない議論の応酬が、相も変わらず両者の間でなされたのではないかと想像します。
私自身は文壇において文芸評論家が不要なのかどうかわかりません。ただし、文芸評論家に対して昔から物申したいことが一つあります。
2.よい文章のドグマは三種類?
ところでよい文章とは何でしょうか。実は業界ごとによい文章、悪い文章の基準が異なるように思えます。私が知るかぎり以下の三種類の文章ドグマがあるように思えるのです。
①文学・哲学の文章ドグマ
頭がいい筆者ほど語彙力が豊富なので難しい文章が書ける。難しい文章を読んで意味がわからない読者は頭が悪い。言葉は数学の記号と違い、抽象的で曖昧な概念を持つが、この言葉の性質を極力生かして文章を書くべき。
②法律・省令・公文書の文章ドグマ
よい文章とは決められた表記と表現を用い、言葉の持つ曖昧さを極力排除した論理的かつ客観的文章を指す。したがって読者が正しく文章を理解すれば、数学の問題を正しく理解するのと同様、ほぼ完全に一致した内容を取得できる。ただしこれらの文章は、世間一般の平均的知能の持ち主には理解できない難解さがある。
③ビジネス・世間一般の文章ドグマ
わかりやすい文章ほどよい文章。わかりにくい文章は悪い文章。頭のいい筆者ほど難しい概念をわかりやすく簡潔に表現できる。逆にわかりにくい文章しか書けない筆者は頭が悪い。
どのドグマが正しいか、一概には言えません。
文芸評論家は①のドグマを信奉して文章を書きます。小説でも詩歌でも言葉の持つ曖昧さを武器に芸術作品を作るわけですから、創作の文章を書く際、①でなければ成立しないジャンルですが、評論までこれと同じでなければならないのでしょうか。
彼らはなぜ②または③のドグマで文章を書かないのでしょうか。
80年代末のことですが、小林秀雄が亡くなったとき、朝日新聞の書評で、小林秀雄の評論はこれからも作品として価値を持つといったことが書かれていました。
評論が作品? 何かトートロジーのような気がします。
ここからは私の解釈ですが、これは小林秀雄の文章が難解であることを短所でなく、長所として捉えた追悼文だったのではないかと思います。
世の中にはスタニスワム・レムの『完全な真空』や筒井康隆の『文学部唯野教授』といった作品があります。評論のスタイルをとった小説です。
もし作品としての価値を持たせたいなら、評論ではなくこうした作品を書くべきではないでしょうか。
思想書や哲学書はともかく、純粋な評論はあくまで小説という対象に対して書かれるべきものだからです。
こうした理由から、私は②または③、特に③のわかりやすい文章で書かれた文芸評論がもっと世に出てきてほしい、と考えています。
3.文芸評論もアマチュアリズムで
私の結論としては、プロの文芸評論家はもっとわかりやすい文章で書いてほしいと思いますし、文芸評論の書籍が一般に売れないのは、何が書いてあるかわからないからだと思います。
その一方で、アマチュアの評論は何を書いても自由です。
ただし読者の方では、これはあくまで素人意見で、まちがっているかもしれないと疑いながらアマゾンの書評を読む必要があるでしょう。
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