2018年3月2日金曜日
自選 ベスト映画20
1. ミツバチのささやき (西)
2. パリ、テキサス(独+仏)
3. 鉄男(日)
4. タイタニック(米)
5. デリカテッセン(仏)
6 電車男(日)
7. ロボット(印)
8. 神々の黄昏(伊)
9. ワンス・アポン・ア・タイム イン アメリカ (米)
10. ナイト・ウォッチ(露)
11. 千と千尋の神隠し(日)
12. ヴィドック (仏)
13. レミーのおいしいレストラン(米)
14. 青い体験 (伊)
15. ブレードランナー(米)
16. Uボート(独)
17. 田園に死す(日)
18. 氷の微笑(米)
19. 少林寺(中)
20. ガメラ3邪神覚醒(日)
2017年4月19日水曜日
中上健次 文芸七番勝負
早いもので没後四半世紀。昭和最後の文豪、中上健次について書いてみようと思う。
ところで中上健次はどんな人物だったのか。私は個人的に、落語家、立川談志師匠の作家バージョンのような人物だったと理解している。つまり「芸は最高だが人間としては最低」の付き合いづらい人物である。
業界では神と仰ぐ信者がいる一方、アンチも根強い。これは談志師匠も中上にも言えることだ。
以下、中上健次について、文学論とその人物評も交えながら、言いたい放題のコメントを書く。
第一番勝負 中上健次 vs 柄谷行人/文壇の暴言ロード・ウォーリアーズ
「なろう」では友人同士がグルになって互いに高得点をつけ合う行為を反則だ、という意見がある。だが80年代、同じような”反則”を実際の文壇でやっていた作家たちがいた。中上健次と柄谷行人の二人組だ。
彼らはよく文芸雑誌で対談し、小林秀雄や村上龍を批判するなど、自分たちの競合作家の徹底的なネガティブキャンペーンを行った。ネガティブキャンペーンの目的は、おそらく自分たちの作品を売り込むためだろう。
もちろん言論の自由であり、誰の作品を批判してもかまわないが、彼らの対談は、2ちゃんねるの誹謗中傷を少しだけ知的でお上品にしたレベルで、文芸評論のまともな批判とはいいがたい。彼らはただ貶める対象の作家をつまらないと連呼しているだけで、その理由をきちんと説明していない(感想、反論お待ちしています)。
当時、日米のプロレス界ではロード・ウォーリアーズという無敵のタッグチームが人気を独占していたが、二人はまさに文壇のロード・ウォーリアーズよろしく、強くて悪くてひどいやつらだったのだ。
それにしろ、二人はどんな関係なのか。ネットで調べたところ、嘘か本当か、中上と柄谷はもともとキャッチボール仲間だったという。キャッチボールだけで文壇ジャックを共謀する友情が生まれるものなのかわからないが、お互いにいいタッグパートナーを見つけたものである。
中上健次と柄谷行人――それは最強にして最凶の文芸タッグチームだ。
第二番勝負 中上健次 vs 大江健三郎/実力No.1はどちら?
かつて柄谷行人は、大江健三郎の小説(『同時代ゲーム』あたり?)を文化人類学者の論文と評し、中上健次の作品を文化人類学者の研究対象そのものとし、例によって中上の小説の方が面白いと評論した(らしい)。柄谷の中上評はステマのようなもので真に受ける必要はないが、それにせよ、「文化人類学の研究対象そのもの」という表現は、中上を未開部落の”土人”か”類人猿”扱いしているようで、言いえて妙だ。
ところで私は現代日本作家で一人称小説の最高の作家が大江健三郎、三人称小説の最高の作家が中上健次だと理解している。一人称小説は「文化人類学者の論文」的だろうし、三人称小説は「文化人類学の研究対象そのもの」だろう。
大江と中上、どちらがすごいのか、甲乙つけがたい。
中上はフォークナーの影響を受け、田舎が舞台の土着の小説を書いた、というのが一般的な中上評のようだ。だか私はフォークナーを読んだことがないので真偽はわからない。また紀州の田舎や被差別部落を描くことが中上文学の長所とも思っていない。
すべての中上の小説が紀州を舞台にしているわけではない。たとえば『賛歌』という作品がある。新宿を舞台に性風俗で働く男が主人公だ。都市を舞台にしても重厚な中上文学ワールドは成立する。
これは私の個人的見解だが、中上文学の真の魅力は、もっと単純に三人称小説の方法論がすぐれているということにつきる。わかりやすく言えば、描写をさぼらず、まじめに小説という散文を書いているということだ。描写をさぼらないとはどういうことか。それは一場面一場面を長く書くことであり、登場人物の動作をそれこそ一挙手一投足まで細かく描くといことだ。
また中上の文体は他の優れた作家同様、個性的で独特の”味”がある。
中上は文章で勝負する作家だが、キャラクターでは勝負しない。緻密な人物描写は怠らないが、個人的に魅力あるキャラクターがいないのだ。
「岬」、「枯木灘」、「地の果て 至上の時」はシリーズもので、主人公、竹原秋幸は若き土方の親方だ。
また「千年の愉楽」、「奇蹟」もシリーズものだ。主人公、オリュウノオバはお産婆さんで、肝っ玉母さん的なキャラクターだ。
私個人的にはどちらのキャラクターにも魅力は感じない。
ところでオリュウノオバシリーズの方は純文学というより、幻想小説、もっと言えばモダンホラー的な作品だ。人面犬が登場する「熊野集」もモダンホラーといってよい。
モダンホラーは圧倒的な文章力を作家に要求する。この意味でも中上はキャラクターでなく、文章で勝負する作家と言えるだろう。
さて、さんざんけなした前述の柄谷の中上評だが、これには続きがある。柄谷曰く、今後、新しい文学は中上の何かをパクらなければ生まれない、といようなことを述べていた。これを自分流に解釈すれば、三人称小説は中上文学のように、描写をさぼらずに書きなさい、ということだ。
被差別部落の”路地”でなく都会を舞台にしてもいいし、上流階級や都市生活者を主人公に小説を書いても中上文学の長所は踏襲できる。ただし文体は小説全体の雰囲気にマッチングするよう、感性を働かせることが肝要だ。そうでないと中上文学のよさはパクれない。
第三番勝負 中上健次 vs 村上春樹/実力No.1はどちら?
作家は評論家のための作家と読者のための作家に二分されると言われる。中上は典型的な前者だ。一方、後者の代表は、80年代では赤川次郎、純文学系に限定すれば村上春樹だろう。
村上春樹は今でこそ万年ノーベル賞候補作家だが、鼠三部作時代はあまり評論家からほめられなかった。だが本は売れている。それで業界としても春樹を評価せざるを得なくなり、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で谷崎潤一郎賞を与えた。
『ノルウェイの森』発売当時、中上は雑誌のインタヴューで「春樹が大衆に媚びている点を批判したい」といったような、例によって辛口コメントを発したのを覚えている。
世代的に考えれば、春樹のライバルは中上でなく、村上龍あたりか。ところで春樹は一人称小説家、龍は三人称小説家と私は個人的に理解している。同じ三人称小説つながりでは中上のライバルは龍、一人称小説つながりでは春樹のライバルは大江ということになる。
春樹は大江にくらべ、さまざまな表現が可能な一人称小説の方法論的な「おいしいところ」がわかってないのでは、と思っていたが、最新作『騎士団長殺し』では、方法論で春樹はついに”大江越え”を果たした、というのが私の感想だ。
第四番勝負 中上健次 vs 古井由吉/中上に勝てる唯一のB級文豪
ところで古井由吉という作家をご存じだろうか。こう書いておいて実は私自身、古井のことはよく知らない。ただ文学通を自認する知人たちがよく褒める作家だ。B級文豪といったところか。
私は短編集を1冊しか読んだことがない。近所の家からてんぷらの臭いがするので迷惑だ、といった他愛ない私小説で、個人的にはつまらなかったが、その一方で、この作家に最高評価点をつける人が業界にはいるのではないか、という感想を持った。
芥川賞は新人作家向けの賞で1回受賞したら二度と受賞できない決まりだが、何回でも受賞できるルールにしたら、毎年受賞しかねないのがこの古井由吉だ。おそらく芥川賞通算受賞回数の最多記録を更新するのではないか。中上もまた複数回受賞しそうな作家だが、古井の通算記録には及ばないだろう。
芥川賞の通常の採点基準で作品を評価した場合、純文学の私小説の理想像に古井の小説は完璧に合致しているのだ。
だが古井の小説がおもしろいかつまらないかと聞かれたら、私はつまらないと答える。
もし本屋で中上と古井のどちらかの本を買わなければいけないと言われたら私は中上を選ぶ。統計をとってもおそらく一般読者は中上の方を選ぶのでなないか。そして中上より春樹を選び、春樹よりラノベを選ぶのが、一般読者の行動様式だ。
おそらく古井文学がわかる人は真の文学通、そうでない人は文学音痴なのだろう。そしてこの基準が正しければ私個人は文学音痴に分類される。
第五番勝負 中上健次 vs 井上光晴/別の意味で中上に勝った全身小説家
古井由吉は短編集を1冊読んだが、作品を一つも読んだことがないのが全身小説家、井上光晴だ。
ところで中上は、多くの作家や評論家、編集者が集まる文壇バーでは”不良番長”になる。
若手はもとより、ときには先輩作家にもからむ。勉強熱心な中上は周囲にいる作家の作品を片っ端から読んでいて、「おまえのあの小説はつまらない」とからんでくる。まさに”文学的不良”だ。
これに対し、酒が入ると井上はただの”不良”になる。若い美人女流作家を見つけるとセクハラしてくる。はしゃぎぶりも、態度のでかさも、中上より井上の方がやや上だ。
だがこの全身小説家、しらふのときは知的で理性的なB級文豪なのかもしれない。
奇しくもこの二人の文壇の”不良番長”は同じ1992年に亡くなっている。
第六番勝負 中上健次 vs 島田雅彦/業界お墨付きの”打倒中上”エース作家
一人の作家が文壇に登場すると、別の一人の作家が文壇から消える。これは某ベテラン編集者の弁である。
彼によれば、島田雅彦が台頭してくると中上健次が零落していくという。文壇はイデオロギー対決の場で、両者は思想が真逆だから、片方がもう片方を食う結果になる......。
”重厚長大”な中上文学と”軽薄短小”な島田文学。確かに真逆にも思えるが、島田の台頭以前に出版不況で、現在では島田もろとも文学界全体が沈下していったのではないだろうか。
私個人の解釈では浅田彰の小説家バージョンが島田雅彦。島田雅彦の思想家バージョンが浅田彰と理解している。
浅田彰の思想であるスキゾキッズとは、私の解釈では、昨日はキリスト教を信じ、今日は仏教を信じ、明日は共産主義を信じる......といったミーハー思想だ。虚無主義や無思想ともまた違う。
哲学など何も知らないミーハーな大衆にくらべ、哲学を一通り”お勉強”した上で、AKB48の握手会に参加するなど、ミーハーと同じ行動様式にたどり着いた思想家が、スキゾキッズなのである。
島田雅彦の作品は初期のものしか読んでないが、ラノベの走り、またはラノベと純文学の中間領域の作品と理解している。またミーハー色が強いが、ある種の”思想小説”になっている点が評価できる。
とは言え、龍や春樹の村上文学の方が島田文学よりも自分の感性に合っている。
第七番勝負 中上健次 vs アルチュール・ランボー/文芸評論は”中上流”で
ところで中上のランボー論をご存じだろうか。某編集者によれば、中上の勝手な”自己流”評論で、書いてあることは滅茶苦茶だと言うが、私も同意見だ。同じランボー論なら小林秀雄のそれの方がましだ。
学生時代、私は背伸びしてペーパーバックのフランス語の原書を買ったことがある。『地獄の季節』だっただろうか。結局、ページにして3ページ程度、お気に入りの詩を一つだけがんばって読んでみた。声に出してフランス語を読んでみると、なんとランボーは韻を踏んでいるのだ。
韻を踏んでいるとなると、外国語の詩歌など、翻訳では本当の魅力は味わえない、と思った瞬間だった。
で、そんな自慢話はともかく、中上の文芸評論は”自己流”が多い。だとしたら、中上文学を語るのは”中上流”=自己流で言いたい放題やるのが流儀にかなっているのではないか。
......という屁理屈で、中上健次について”中上流”で論じてみました。感想、反論ある方、歓迎します。
(了)
ところで中上健次はどんな人物だったのか。私は個人的に、落語家、立川談志師匠の作家バージョンのような人物だったと理解している。つまり「芸は最高だが人間としては最低」の付き合いづらい人物である。
業界では神と仰ぐ信者がいる一方、アンチも根強い。これは談志師匠も中上にも言えることだ。
以下、中上健次について、文学論とその人物評も交えながら、言いたい放題のコメントを書く。
第一番勝負 中上健次 vs 柄谷行人/文壇の暴言ロード・ウォーリアーズ
「なろう」では友人同士がグルになって互いに高得点をつけ合う行為を反則だ、という意見がある。だが80年代、同じような”反則”を実際の文壇でやっていた作家たちがいた。中上健次と柄谷行人の二人組だ。
彼らはよく文芸雑誌で対談し、小林秀雄や村上龍を批判するなど、自分たちの競合作家の徹底的なネガティブキャンペーンを行った。ネガティブキャンペーンの目的は、おそらく自分たちの作品を売り込むためだろう。
もちろん言論の自由であり、誰の作品を批判してもかまわないが、彼らの対談は、2ちゃんねるの誹謗中傷を少しだけ知的でお上品にしたレベルで、文芸評論のまともな批判とはいいがたい。彼らはただ貶める対象の作家をつまらないと連呼しているだけで、その理由をきちんと説明していない(感想、反論お待ちしています)。
当時、日米のプロレス界ではロード・ウォーリアーズという無敵のタッグチームが人気を独占していたが、二人はまさに文壇のロード・ウォーリアーズよろしく、強くて悪くてひどいやつらだったのだ。
それにしろ、二人はどんな関係なのか。ネットで調べたところ、嘘か本当か、中上と柄谷はもともとキャッチボール仲間だったという。キャッチボールだけで文壇ジャックを共謀する友情が生まれるものなのかわからないが、お互いにいいタッグパートナーを見つけたものである。
中上健次と柄谷行人――それは最強にして最凶の文芸タッグチームだ。
第二番勝負 中上健次 vs 大江健三郎/実力No.1はどちら?
かつて柄谷行人は、大江健三郎の小説(『同時代ゲーム』あたり?)を文化人類学者の論文と評し、中上健次の作品を文化人類学者の研究対象そのものとし、例によって中上の小説の方が面白いと評論した(らしい)。柄谷の中上評はステマのようなもので真に受ける必要はないが、それにせよ、「文化人類学の研究対象そのもの」という表現は、中上を未開部落の”土人”か”類人猿”扱いしているようで、言いえて妙だ。
ところで私は現代日本作家で一人称小説の最高の作家が大江健三郎、三人称小説の最高の作家が中上健次だと理解している。一人称小説は「文化人類学者の論文」的だろうし、三人称小説は「文化人類学の研究対象そのもの」だろう。
大江と中上、どちらがすごいのか、甲乙つけがたい。
中上はフォークナーの影響を受け、田舎が舞台の土着の小説を書いた、というのが一般的な中上評のようだ。だか私はフォークナーを読んだことがないので真偽はわからない。また紀州の田舎や被差別部落を描くことが中上文学の長所とも思っていない。
すべての中上の小説が紀州を舞台にしているわけではない。たとえば『賛歌』という作品がある。新宿を舞台に性風俗で働く男が主人公だ。都市を舞台にしても重厚な中上文学ワールドは成立する。
これは私の個人的見解だが、中上文学の真の魅力は、もっと単純に三人称小説の方法論がすぐれているということにつきる。わかりやすく言えば、描写をさぼらず、まじめに小説という散文を書いているということだ。描写をさぼらないとはどういうことか。それは一場面一場面を長く書くことであり、登場人物の動作をそれこそ一挙手一投足まで細かく描くといことだ。
また中上の文体は他の優れた作家同様、個性的で独特の”味”がある。
中上は文章で勝負する作家だが、キャラクターでは勝負しない。緻密な人物描写は怠らないが、個人的に魅力あるキャラクターがいないのだ。
「岬」、「枯木灘」、「地の果て 至上の時」はシリーズもので、主人公、竹原秋幸は若き土方の親方だ。
また「千年の愉楽」、「奇蹟」もシリーズものだ。主人公、オリュウノオバはお産婆さんで、肝っ玉母さん的なキャラクターだ。
私個人的にはどちらのキャラクターにも魅力は感じない。
ところでオリュウノオバシリーズの方は純文学というより、幻想小説、もっと言えばモダンホラー的な作品だ。人面犬が登場する「熊野集」もモダンホラーといってよい。
モダンホラーは圧倒的な文章力を作家に要求する。この意味でも中上はキャラクターでなく、文章で勝負する作家と言えるだろう。
さて、さんざんけなした前述の柄谷の中上評だが、これには続きがある。柄谷曰く、今後、新しい文学は中上の何かをパクらなければ生まれない、といようなことを述べていた。これを自分流に解釈すれば、三人称小説は中上文学のように、描写をさぼらずに書きなさい、ということだ。
被差別部落の”路地”でなく都会を舞台にしてもいいし、上流階級や都市生活者を主人公に小説を書いても中上文学の長所は踏襲できる。ただし文体は小説全体の雰囲気にマッチングするよう、感性を働かせることが肝要だ。そうでないと中上文学のよさはパクれない。
第三番勝負 中上健次 vs 村上春樹/実力No.1はどちら?
作家は評論家のための作家と読者のための作家に二分されると言われる。中上は典型的な前者だ。一方、後者の代表は、80年代では赤川次郎、純文学系に限定すれば村上春樹だろう。
村上春樹は今でこそ万年ノーベル賞候補作家だが、鼠三部作時代はあまり評論家からほめられなかった。だが本は売れている。それで業界としても春樹を評価せざるを得なくなり、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で谷崎潤一郎賞を与えた。
『ノルウェイの森』発売当時、中上は雑誌のインタヴューで「春樹が大衆に媚びている点を批判したい」といったような、例によって辛口コメントを発したのを覚えている。
世代的に考えれば、春樹のライバルは中上でなく、村上龍あたりか。ところで春樹は一人称小説家、龍は三人称小説家と私は個人的に理解している。同じ三人称小説つながりでは中上のライバルは龍、一人称小説つながりでは春樹のライバルは大江ということになる。
春樹は大江にくらべ、さまざまな表現が可能な一人称小説の方法論的な「おいしいところ」がわかってないのでは、と思っていたが、最新作『騎士団長殺し』では、方法論で春樹はついに”大江越え”を果たした、というのが私の感想だ。
第四番勝負 中上健次 vs 古井由吉/中上に勝てる唯一のB級文豪
ところで古井由吉という作家をご存じだろうか。こう書いておいて実は私自身、古井のことはよく知らない。ただ文学通を自認する知人たちがよく褒める作家だ。B級文豪といったところか。
私は短編集を1冊しか読んだことがない。近所の家からてんぷらの臭いがするので迷惑だ、といった他愛ない私小説で、個人的にはつまらなかったが、その一方で、この作家に最高評価点をつける人が業界にはいるのではないか、という感想を持った。
芥川賞は新人作家向けの賞で1回受賞したら二度と受賞できない決まりだが、何回でも受賞できるルールにしたら、毎年受賞しかねないのがこの古井由吉だ。おそらく芥川賞通算受賞回数の最多記録を更新するのではないか。中上もまた複数回受賞しそうな作家だが、古井の通算記録には及ばないだろう。
芥川賞の通常の採点基準で作品を評価した場合、純文学の私小説の理想像に古井の小説は完璧に合致しているのだ。
だが古井の小説がおもしろいかつまらないかと聞かれたら、私はつまらないと答える。
もし本屋で中上と古井のどちらかの本を買わなければいけないと言われたら私は中上を選ぶ。統計をとってもおそらく一般読者は中上の方を選ぶのでなないか。そして中上より春樹を選び、春樹よりラノベを選ぶのが、一般読者の行動様式だ。
おそらく古井文学がわかる人は真の文学通、そうでない人は文学音痴なのだろう。そしてこの基準が正しければ私個人は文学音痴に分類される。
第五番勝負 中上健次 vs 井上光晴/別の意味で中上に勝った全身小説家
古井由吉は短編集を1冊読んだが、作品を一つも読んだことがないのが全身小説家、井上光晴だ。
ところで中上は、多くの作家や評論家、編集者が集まる文壇バーでは”不良番長”になる。
若手はもとより、ときには先輩作家にもからむ。勉強熱心な中上は周囲にいる作家の作品を片っ端から読んでいて、「おまえのあの小説はつまらない」とからんでくる。まさに”文学的不良”だ。
これに対し、酒が入ると井上はただの”不良”になる。若い美人女流作家を見つけるとセクハラしてくる。はしゃぎぶりも、態度のでかさも、中上より井上の方がやや上だ。
だがこの全身小説家、しらふのときは知的で理性的なB級文豪なのかもしれない。
奇しくもこの二人の文壇の”不良番長”は同じ1992年に亡くなっている。
第六番勝負 中上健次 vs 島田雅彦/業界お墨付きの”打倒中上”エース作家
一人の作家が文壇に登場すると、別の一人の作家が文壇から消える。これは某ベテラン編集者の弁である。
彼によれば、島田雅彦が台頭してくると中上健次が零落していくという。文壇はイデオロギー対決の場で、両者は思想が真逆だから、片方がもう片方を食う結果になる......。
”重厚長大”な中上文学と”軽薄短小”な島田文学。確かに真逆にも思えるが、島田の台頭以前に出版不況で、現在では島田もろとも文学界全体が沈下していったのではないだろうか。
私個人の解釈では浅田彰の小説家バージョンが島田雅彦。島田雅彦の思想家バージョンが浅田彰と理解している。
浅田彰の思想であるスキゾキッズとは、私の解釈では、昨日はキリスト教を信じ、今日は仏教を信じ、明日は共産主義を信じる......といったミーハー思想だ。虚無主義や無思想ともまた違う。
哲学など何も知らないミーハーな大衆にくらべ、哲学を一通り”お勉強”した上で、AKB48の握手会に参加するなど、ミーハーと同じ行動様式にたどり着いた思想家が、スキゾキッズなのである。
島田雅彦の作品は初期のものしか読んでないが、ラノベの走り、またはラノベと純文学の中間領域の作品と理解している。またミーハー色が強いが、ある種の”思想小説”になっている点が評価できる。
とは言え、龍や春樹の村上文学の方が島田文学よりも自分の感性に合っている。
第七番勝負 中上健次 vs アルチュール・ランボー/文芸評論は”中上流”で
ところで中上のランボー論をご存じだろうか。某編集者によれば、中上の勝手な”自己流”評論で、書いてあることは滅茶苦茶だと言うが、私も同意見だ。同じランボー論なら小林秀雄のそれの方がましだ。
学生時代、私は背伸びしてペーパーバックのフランス語の原書を買ったことがある。『地獄の季節』だっただろうか。結局、ページにして3ページ程度、お気に入りの詩を一つだけがんばって読んでみた。声に出してフランス語を読んでみると、なんとランボーは韻を踏んでいるのだ。
韻を踏んでいるとなると、外国語の詩歌など、翻訳では本当の魅力は味わえない、と思った瞬間だった。
で、そんな自慢話はともかく、中上の文芸評論は”自己流”が多い。だとしたら、中上文学を語るのは”中上流”=自己流で言いたい放題やるのが流儀にかなっているのではないか。
......という屁理屈で、中上健次について”中上流”で論じてみました。感想、反論ある方、歓迎します。
(了)
2016年12月24日土曜日
領土問題について
最近、プーチン大統領訪日で、マスコミは北方領土問題を話題にしている。
北方領土を返さないからロシアが悪いという、毎度おなじみの議論が繰り返されて半世紀以上。
進展が少しもないのはいい加減辟易する。
領土問題自体にではない、マスコミの論調にだ。
我が国の領土問題は北方領土以外に尖閣諸島、竹島がよくマスコミの話題になる。
1. 辺境の離れ島はくれてやれ!
領土問題に対する私の率直な意見はこうだ。
尖閣諸島は中国、竹島は韓国、北方領土はロシアにそれぞれくれてやっても構わない。
あんな辺境の土地のおかげで隣国との友好関係が妨げられているのは無意味だ。
ましてやあんな離れ島のせいで、日本と隣国間に戦争が勃発してはたまらない。
東京、大阪、名古屋のような大都市を外国がぶんどろうとしているならいざ知らず、なぜあんな離島の所有権にこだわるのか。
尖閣諸島はご存じだろうか。
釣島はアホウドリしか住んでない無人島だ。
こんな無人島のために日中戦争をけしかけようと国民を情報操作する最近のマスコミには、心底憤りを覚える。
それにくらべ、竹島は完全な無人島ではないが、記念碑が建っていたり、おみあげ売場があるだけで、ほぼ無人島に近い。おみあげ売場には「独島(竹島の意)は韓国領だ」とハングル文字で書かれたTシャツを販売しているという。
私に言わせれば、竹島は、秩父の山の頂上に建てられた山小屋と同レベルの観光地である。家が近くなら休日に遊びに行ってもいいかもしれないが、遠方からはるばる旅行するほどの場所ではない。
そこへいくと北方領土は一番まともだ。ネットで検索するとロシア風の美しい洋館や、埠頭に佇む美しいブロンドの美女の写真が見つかる。
だがそれもロシア領ならではの風景かもしれない。ウサギ小屋に住まわされている日本人は、欧米の住宅の大きさを認識すべきだ。
日本人が彼ら並みのまともな家に住むようになって、はじめて日本領も北方領土のような美しい洋館が立ち並ぶ街並みになるのではないか。
尖閣諸島や北方領土は周辺の海域で石油が採掘できる、という人がいるかもしれない。
だが私は石油には興味がない。
原発と火力発電をなくしても、エネルギー問題は解決できる、いや、解決すべきだというのが私の考えだ。
現在開発された技術を駆使するだけでも、再生可能エネルギーだけで七割近く解決できる。新エネルギーを解決すれば、もはや石油には用はない。
本題からはずれるので詳細は記さないが、これが私の持論だ。
いずれにせよ辺境の離れ島、すなわち北方領土、尖閣諸島、竹島は外国にくれてやり、その分、日本は平和を獲得すべきだ。
2.むしろ横田基地返還を
外国から領土を返してもらうなら、むしろ、在日米軍基地を撤廃して、基地の土地を米国から返却してもらう方がよほど国益にかなっている。
たとえば東京多摩地区に住む住民にとり、一番返還してほしい土地は横田基地である。
横田基地の土地は民間が自由に利用できる国際空港にしてはどうだろう。
わざわざ遠方の成田空港に行かなくても海外旅行ができる。羽田空港に行かなくても、北海道旅行や沖縄旅行が楽しめる。
ここで考えてほしい。
尖閣諸島、竹島が返還されても日常生活で利便性を感じる日本人はほとんどいない。北方領土はこれら二つより少しましだが、それでも大したことはない
だが横田基地返還の場合、東京都民、神奈川県民、埼玉県民のライフスタイルに多大な影響を与えるだけでなく、日本経済向上に大いに貢献するはずだ。
在日米軍基地を国内から撤廃したら、外国が攻めてくるのではないか。
こういうことを心配する人もいるだろう。
だが後述するが北朝鮮は実質、米国の植民地で、米国の命令でテポドンを日本向けに配置しているのである。
在日米軍基地は日本を守っているのではなく、”思いやり予算”などで日本から搾取しているのだ。
3. 朝鮮半島の領土問題意識を
ムーパルチャンネルの番組「国家非常事態対策委員会」で最近、ベンジャミン・フルフォード氏(以下、BF)が興味深い発言をしている。
日本、韓国、朝鮮が一つの国に統合するという動きがあるというのだ。
もともと第二次世界大戦前、三十年間、朝鮮半島と日本列島は大日本帝国という一つの国だった(台湾や南方諸島も含めて)。
もともと一つの国でを、戦後、米国が三つに分断統治して植民地化し、互いに争わせるようにこの地の国民たちに情報操作してきた。
歴史的にも極東の半島と列島はほぼ同一民族と言えるが(日本語と韓国語は姉妹言語であることなど)、この地の国民に、長い間、それに気づかせないよう、嘘の教育をしてきたため、現時点では感情的に互いを嫌いあっている。
だが日朝韓が一つになれば、中国、ロシアと同等の大国が誕生する。だからもう一度、極東アジアは一つになるべきだ。
BFはそう唱える。
日本と韓国が米国の植民地であることは、在日または在韓米軍基地から推測がつくが、北朝鮮が米国の植民地と言われてもピンとこない人もいるかもしれない。
これはBFの過去の動画を見てもらえば理解できる。
マスコミは北朝鮮は米国の敵国で、米国は日本と同盟国だと喧伝するが、これはプロパガンダに過ぎない。実際は、北朝鮮はCIAの命令で日本向けテポドンを配置しているのだ。
極東アジアを分断させ、互いに争わせた方が米国としては支配しやすい。一つにまとまって国力を持たれるのが一番困る。
テポドンの核兵器は米国製またはイスラエル製とのこと。
常識的にものごとを考えてほしい。北朝鮮のような後進国が独自で核兵器を開発できる技術力がないことは、誰もが合意できるだろう。
第二次大戦後、ドイツはベルリンの壁で東西に分断された。その後、89年にベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは再び一つの国になった。なぜ一つになったのか。それはもともと一つの国だったからだ。
われわれもまた、過去の記憶を呼び戻すべきだ。極東アジアを外から見たら、一つの民族だ。まずは米国の植民地状態から独立し、もう一度一つになるべきだろう。
ただし片方がもう片方の政府を征服するのではなく、対等合弁が必要だ。
共通の言語は英語とし、旧日本領は日本語と英語、旧韓国領、旧朝鮮亮は韓国語と英語というように、地域ごとに標準語を調整してはどうか。
また明治維新では廃藩置県により、それまで半独立国といっていい藩が解体し、中央集権体制が確立されたが、今度はその逆に、ローカル地域の地方自治権を強化し、国全体としては外交、防衛のみの行政に特化した連邦国家のような体制が望ましいだろう。
つまり半島と列島が統合する最大のメリットは第一にこの地域内での戦争が起こらないことである。軍隊だけ統一し、そのための共通の国家元首を置き、それ以外の行政はすべて地方自治が担当するというのでもいいだろう。
領土問題というと、マスコミは北方領土、尖閣諸島、竹島ばかりを取り上げ、日朝韓統一問題に触れることはない。
だがこちらの方がはるかに関心を持つべき領土問題なのだ。
北方領土を返さないからロシアが悪いという、毎度おなじみの議論が繰り返されて半世紀以上。
進展が少しもないのはいい加減辟易する。
領土問題自体にではない、マスコミの論調にだ。
我が国の領土問題は北方領土以外に尖閣諸島、竹島がよくマスコミの話題になる。
1. 辺境の離れ島はくれてやれ!
領土問題に対する私の率直な意見はこうだ。
尖閣諸島は中国、竹島は韓国、北方領土はロシアにそれぞれくれてやっても構わない。
あんな辺境の土地のおかげで隣国との友好関係が妨げられているのは無意味だ。
ましてやあんな離れ島のせいで、日本と隣国間に戦争が勃発してはたまらない。
東京、大阪、名古屋のような大都市を外国がぶんどろうとしているならいざ知らず、なぜあんな離島の所有権にこだわるのか。
尖閣諸島はご存じだろうか。
釣島はアホウドリしか住んでない無人島だ。
こんな無人島のために日中戦争をけしかけようと国民を情報操作する最近のマスコミには、心底憤りを覚える。
それにくらべ、竹島は完全な無人島ではないが、記念碑が建っていたり、おみあげ売場があるだけで、ほぼ無人島に近い。おみあげ売場には「独島(竹島の意)は韓国領だ」とハングル文字で書かれたTシャツを販売しているという。
私に言わせれば、竹島は、秩父の山の頂上に建てられた山小屋と同レベルの観光地である。家が近くなら休日に遊びに行ってもいいかもしれないが、遠方からはるばる旅行するほどの場所ではない。
そこへいくと北方領土は一番まともだ。ネットで検索するとロシア風の美しい洋館や、埠頭に佇む美しいブロンドの美女の写真が見つかる。
だがそれもロシア領ならではの風景かもしれない。ウサギ小屋に住まわされている日本人は、欧米の住宅の大きさを認識すべきだ。
日本人が彼ら並みのまともな家に住むようになって、はじめて日本領も北方領土のような美しい洋館が立ち並ぶ街並みになるのではないか。
尖閣諸島や北方領土は周辺の海域で石油が採掘できる、という人がいるかもしれない。
だが私は石油には興味がない。
原発と火力発電をなくしても、エネルギー問題は解決できる、いや、解決すべきだというのが私の考えだ。
現在開発された技術を駆使するだけでも、再生可能エネルギーだけで七割近く解決できる。新エネルギーを解決すれば、もはや石油には用はない。
本題からはずれるので詳細は記さないが、これが私の持論だ。
いずれにせよ辺境の離れ島、すなわち北方領土、尖閣諸島、竹島は外国にくれてやり、その分、日本は平和を獲得すべきだ。
2.むしろ横田基地返還を
外国から領土を返してもらうなら、むしろ、在日米軍基地を撤廃して、基地の土地を米国から返却してもらう方がよほど国益にかなっている。
たとえば東京多摩地区に住む住民にとり、一番返還してほしい土地は横田基地である。
横田基地の土地は民間が自由に利用できる国際空港にしてはどうだろう。
わざわざ遠方の成田空港に行かなくても海外旅行ができる。羽田空港に行かなくても、北海道旅行や沖縄旅行が楽しめる。
ここで考えてほしい。
尖閣諸島、竹島が返還されても日常生活で利便性を感じる日本人はほとんどいない。北方領土はこれら二つより少しましだが、それでも大したことはない
だが横田基地返還の場合、東京都民、神奈川県民、埼玉県民のライフスタイルに多大な影響を与えるだけでなく、日本経済向上に大いに貢献するはずだ。
在日米軍基地を国内から撤廃したら、外国が攻めてくるのではないか。
こういうことを心配する人もいるだろう。
だが後述するが北朝鮮は実質、米国の植民地で、米国の命令でテポドンを日本向けに配置しているのである。
在日米軍基地は日本を守っているのではなく、”思いやり予算”などで日本から搾取しているのだ。
3. 朝鮮半島の領土問題意識を
ムーパルチャンネルの番組「国家非常事態対策委員会」で最近、ベンジャミン・フルフォード氏(以下、BF)が興味深い発言をしている。
日本、韓国、朝鮮が一つの国に統合するという動きがあるというのだ。
もともと第二次世界大戦前、三十年間、朝鮮半島と日本列島は大日本帝国という一つの国だった(台湾や南方諸島も含めて)。
もともと一つの国でを、戦後、米国が三つに分断統治して植民地化し、互いに争わせるようにこの地の国民たちに情報操作してきた。
歴史的にも極東の半島と列島はほぼ同一民族と言えるが(日本語と韓国語は姉妹言語であることなど)、この地の国民に、長い間、それに気づかせないよう、嘘の教育をしてきたため、現時点では感情的に互いを嫌いあっている。
だが日朝韓が一つになれば、中国、ロシアと同等の大国が誕生する。だからもう一度、極東アジアは一つになるべきだ。
BFはそう唱える。
日本と韓国が米国の植民地であることは、在日または在韓米軍基地から推測がつくが、北朝鮮が米国の植民地と言われてもピンとこない人もいるかもしれない。
これはBFの過去の動画を見てもらえば理解できる。
マスコミは北朝鮮は米国の敵国で、米国は日本と同盟国だと喧伝するが、これはプロパガンダに過ぎない。実際は、北朝鮮はCIAの命令で日本向けテポドンを配置しているのだ。
極東アジアを分断させ、互いに争わせた方が米国としては支配しやすい。一つにまとまって国力を持たれるのが一番困る。
テポドンの核兵器は米国製またはイスラエル製とのこと。
常識的にものごとを考えてほしい。北朝鮮のような後進国が独自で核兵器を開発できる技術力がないことは、誰もが合意できるだろう。
第二次大戦後、ドイツはベルリンの壁で東西に分断された。その後、89年にベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは再び一つの国になった。なぜ一つになったのか。それはもともと一つの国だったからだ。
われわれもまた、過去の記憶を呼び戻すべきだ。極東アジアを外から見たら、一つの民族だ。まずは米国の植民地状態から独立し、もう一度一つになるべきだろう。
ただし片方がもう片方の政府を征服するのではなく、対等合弁が必要だ。
共通の言語は英語とし、旧日本領は日本語と英語、旧韓国領、旧朝鮮亮は韓国語と英語というように、地域ごとに標準語を調整してはどうか。
また明治維新では廃藩置県により、それまで半独立国といっていい藩が解体し、中央集権体制が確立されたが、今度はその逆に、ローカル地域の地方自治権を強化し、国全体としては外交、防衛のみの行政に特化した連邦国家のような体制が望ましいだろう。
つまり半島と列島が統合する最大のメリットは第一にこの地域内での戦争が起こらないことである。軍隊だけ統一し、そのための共通の国家元首を置き、それ以外の行政はすべて地方自治が担当するというのでもいいだろう。
領土問題というと、マスコミは北方領土、尖閣諸島、竹島ばかりを取り上げ、日朝韓統一問題に触れることはない。
だがこちらの方がはるかに関心を持つべき領土問題なのだ。
2016年10月14日金曜日
納得いかない ピコ太郎 vs ボブ・ディラン
最近納得いかないことがある。ピコ太郎とボブ・ディランに関するニュースである。
1. ピコ太郎ってどうよ
ピコ太郎という見るからにヤクザ芸人のパフォーマンス動画が、ユーチューブのある部門で再生回数がトップになったという。
ネットの書込みをみると、ピコ太郎がどうして面白いのかわからないといった意見を複数目にしたが、私も同意見である。
おそらくピコ太郎の人気は芸能事務所側の偽装であり、再生回数トップのニュースはステマなのだろう。
ピコ太郎にかぎらず芸人なら誰もが似たような事務所側のステマで売り出されるのだろうが、ピコ太郎の場合、芸が下手過ぎてステマが露見したといったところか。
むしろ「前職ヤクザの芸人です」といった歌詞をラップで歌うとか、ヤクザネタで笑わせれば受けるのではないか。
2. 春樹でなく、ボブ・ディランのノーベル文学賞ってどうよ
ピコ太郎と違ってボブ・ディランが世界的大スターであることを認めるのはやぶさかではない。だが村上春樹を差し置いて、ミュージシャンがノーベル文学賞受賞とは、正直ぶっ飛んだ。
イチローがノーベル物理学賞を受賞したようなものである。
ネットジャーナリストのリチャード・コシミズ氏によれば、ボブ・ディランの受賞は、春樹にノーベル賞を取らせないための裏社会の苦肉の策とのことらしい。
2009年、エルサレム賞を受賞した春樹は受賞スピーチでイスラエルのパレスチナ爆撃を非難した。これが世界を支配するユダ金の虎の尾を踏み、結果としてノーベル賞を取れなくなった。リチャード・コシミズ氏はそう主張する。
そもそもノーベル賞は政治色が強い。かつてチャーチル首相のエッセーがヘミングウェイを差し置いてノーベル文学賞を受賞したときも、「えっ?」だったのでは。
3. 春樹が「笑い飯」でなければ、小川洋子待望論
ツイッターの書込みによると、M-1の「笑い飯」のポジションにノーベル文学賞の春樹がいるという。
「笑い飯」はわざと優勝せず、ほとんど毎回M-1に出場して番組のレギュラーになり、最終回に優勝した。早く優勝するより、番組のレギュラーになって毎年テレビ出演する方が芸人として得なのだろうと素人目にも推測できたが、そこはお笑い番組である。そういう「笑い飯」のセコさ自身がギャグだった。
同じように毎年、出版社など関連業界で春樹ネタで引っ張って商売し、そろそろ世間が飽きかけたころに受賞する。そういう筋書きかもしれない。
ただし、そうではなく、春樹では永遠に受賞できないなら、日本代表を交代すべきだ。
純文学系で、国内外で評価されている春樹より若い作家......小川洋子あたりはどうだろう。
来年から春樹をやめ、小川洋子をノーベル文学賞レースに出場させるのだ。
日本ペンクラブさん、電通さん、いかがですか。
1. ピコ太郎ってどうよ
ピコ太郎という見るからにヤクザ芸人のパフォーマンス動画が、ユーチューブのある部門で再生回数がトップになったという。
ネットの書込みをみると、ピコ太郎がどうして面白いのかわからないといった意見を複数目にしたが、私も同意見である。
おそらくピコ太郎の人気は芸能事務所側の偽装であり、再生回数トップのニュースはステマなのだろう。
ピコ太郎にかぎらず芸人なら誰もが似たような事務所側のステマで売り出されるのだろうが、ピコ太郎の場合、芸が下手過ぎてステマが露見したといったところか。
むしろ「前職ヤクザの芸人です」といった歌詞をラップで歌うとか、ヤクザネタで笑わせれば受けるのではないか。
2. 春樹でなく、ボブ・ディランのノーベル文学賞ってどうよ
ピコ太郎と違ってボブ・ディランが世界的大スターであることを認めるのはやぶさかではない。だが村上春樹を差し置いて、ミュージシャンがノーベル文学賞受賞とは、正直ぶっ飛んだ。
イチローがノーベル物理学賞を受賞したようなものである。
ネットジャーナリストのリチャード・コシミズ氏によれば、ボブ・ディランの受賞は、春樹にノーベル賞を取らせないための裏社会の苦肉の策とのことらしい。
2009年、エルサレム賞を受賞した春樹は受賞スピーチでイスラエルのパレスチナ爆撃を非難した。これが世界を支配するユダ金の虎の尾を踏み、結果としてノーベル賞を取れなくなった。リチャード・コシミズ氏はそう主張する。
そもそもノーベル賞は政治色が強い。かつてチャーチル首相のエッセーがヘミングウェイを差し置いてノーベル文学賞を受賞したときも、「えっ?」だったのでは。
3. 春樹が「笑い飯」でなければ、小川洋子待望論
ツイッターの書込みによると、M-1の「笑い飯」のポジションにノーベル文学賞の春樹がいるという。
「笑い飯」はわざと優勝せず、ほとんど毎回M-1に出場して番組のレギュラーになり、最終回に優勝した。早く優勝するより、番組のレギュラーになって毎年テレビ出演する方が芸人として得なのだろうと素人目にも推測できたが、そこはお笑い番組である。そういう「笑い飯」のセコさ自身がギャグだった。
同じように毎年、出版社など関連業界で春樹ネタで引っ張って商売し、そろそろ世間が飽きかけたころに受賞する。そういう筋書きかもしれない。
ただし、そうではなく、春樹では永遠に受賞できないなら、日本代表を交代すべきだ。
純文学系で、国内外で評価されている春樹より若い作家......小川洋子あたりはどうだろう。
来年から春樹をやめ、小川洋子をノーベル文学賞レースに出場させるのだ。
日本ペンクラブさん、電通さん、いかがですか。
2016年6月22日水曜日
2016年1月23日土曜日
クイズダービー やらせ否定論に物申す
どうでもいい話だが、往年の人気クイズ番組「クイズダービー」のやらせ否定論、あるいはやらせ弁解論がネットで出回っている。
私は裏事情は知らないので、番組出演者や製作者がやらせはなかったと主張すれば、「ああ、そうですか」と引き下がるしかないのだが、今考えると、やらせがなかったとしたら、あまりに面白すぎる番組だった。
レギュラー解答者の中で漫画家が一番正解率が高く、大学教授が一番正解率が低い。
これがこのクイズ番組の人気のすべてだろう。
ネットはおろかPCさえ家庭に普及していなかった時代、大学教授の権威は今より格段に高かった。
一方、漫画は文化としてまだまだ軽蔑されていた時代。
漫画はくだらなくてもそれを描く漫画家は思っているより頭がいいのではないか、というような風潮は七十年代初頭からすでにあったような記憶がある。
だが大学教授を差し置いて、たかが漫画家がもっと頭がいいわけがない。
そういう常識がまかり通っていた時代だったから、はらたいらの活躍と、篠沢教授の珍解答の組合せは面白かった。
特に司会の大橋巨泉が毎回、お約束で篠沢教授をけちょんけちょんにけなす。
「あなた、それでも大学教授ですか」
この決め台詞で全国の番組視聴者は笑い転げたものだ。
やらせがあったらつまらない。ガチだったら無条件で面白い。こういう価値観は、昭和から平成にかけて、あるいは20世紀末から21世紀初頭にかけて、特にプロレスの歴史的変遷の中で、時代遅れになったと思う。
WWEはやらせを標榜しながら、世界一の興業成績を誇るプロレス団体である。
やらせでも面白いものはある。ガチでもつまらないものはある。
つまらなくてみんなが見向きもしなくなれば、その興業はなくなるが、存続しているということは自分はつまらなくても、面白がっている客がある程度いるということになる。
私はWWEの面白さをみんなが理解すべきだと言っているのではない。
ただやらせかガチかとは別に、面白いか面白くないかを論じる視点を持つべきだと思うのだ。
よくプロレスと総合格闘技を論じる場合、やらせなら無条件につまらなく、ガチやら無条件で面白い、という価値観を大前提に議論されるが、この大前提が間違っていると思う。
ある人に言わせれば、およそ格闘技はけんかから発展したようなスポーツで、やらせかガチかに関係なく、どちらも野蛮で嫌い、とのことである。
彼女はプロレスもボクシングもK-1も総合格闘技も見ない。
こういう価値観も”あり”だと思う。
「アイアンシェフ」がすぐに打ち切りになってしまったのも、同じ感じがする。
やらせかやらせでないかが、ネットでは大きな論点になっていた。
だが最初から勝負けはやらせであることを標榜した上で、料理文化を紹介するという観点で番組作りをしていった方がよかったのでは。
いずれにせよ、「クイズダービー」が今後復活するのであれば、自分としては、やらせを最初から標榜した面白い番組を期待したい。
私は裏事情は知らないので、番組出演者や製作者がやらせはなかったと主張すれば、「ああ、そうですか」と引き下がるしかないのだが、今考えると、やらせがなかったとしたら、あまりに面白すぎる番組だった。
レギュラー解答者の中で漫画家が一番正解率が高く、大学教授が一番正解率が低い。
これがこのクイズ番組の人気のすべてだろう。
ネットはおろかPCさえ家庭に普及していなかった時代、大学教授の権威は今より格段に高かった。
一方、漫画は文化としてまだまだ軽蔑されていた時代。
漫画はくだらなくてもそれを描く漫画家は思っているより頭がいいのではないか、というような風潮は七十年代初頭からすでにあったような記憶がある。
だが大学教授を差し置いて、たかが漫画家がもっと頭がいいわけがない。
そういう常識がまかり通っていた時代だったから、はらたいらの活躍と、篠沢教授の珍解答の組合せは面白かった。
特に司会の大橋巨泉が毎回、お約束で篠沢教授をけちょんけちょんにけなす。
「あなた、それでも大学教授ですか」
この決め台詞で全国の番組視聴者は笑い転げたものだ。
やらせがあったらつまらない。ガチだったら無条件で面白い。こういう価値観は、昭和から平成にかけて、あるいは20世紀末から21世紀初頭にかけて、特にプロレスの歴史的変遷の中で、時代遅れになったと思う。
WWEはやらせを標榜しながら、世界一の興業成績を誇るプロレス団体である。
やらせでも面白いものはある。ガチでもつまらないものはある。
つまらなくてみんなが見向きもしなくなれば、その興業はなくなるが、存続しているということは自分はつまらなくても、面白がっている客がある程度いるということになる。
私はWWEの面白さをみんなが理解すべきだと言っているのではない。
ただやらせかガチかとは別に、面白いか面白くないかを論じる視点を持つべきだと思うのだ。
よくプロレスと総合格闘技を論じる場合、やらせなら無条件につまらなく、ガチやら無条件で面白い、という価値観を大前提に議論されるが、この大前提が間違っていると思う。
ある人に言わせれば、およそ格闘技はけんかから発展したようなスポーツで、やらせかガチかに関係なく、どちらも野蛮で嫌い、とのことである。
彼女はプロレスもボクシングもK-1も総合格闘技も見ない。
こういう価値観も”あり”だと思う。
「アイアンシェフ」がすぐに打ち切りになってしまったのも、同じ感じがする。
やらせかやらせでないかが、ネットでは大きな論点になっていた。
だが最初から勝負けはやらせであることを標榜した上で、料理文化を紹介するという観点で番組作りをしていった方がよかったのでは。
いずれにせよ、「クイズダービー」が今後復活するのであれば、自分としては、やらせを最初から標榜した面白い番組を期待したい。
2015年12月19日土曜日
自己満足のすすめ
自己満足という言葉があります。
一般に否定的な意味で使われます。
辞書で調べると、自己満足はひとりよがりと同じと説明されていますが、私の個人的語感は以下です。
ひとりよがり <= 自己満足 <= 権威評価
つまり自己満足は権威からの評価に及ばないものの、ひとりよがりより少しましという考えです。
自己満足が権威評価とイコールになるのは、たとえばあなたが世界一権威のあるワイン評論家だった場合です。
あなたが1本2,000円程度のあるグラスワインを絶賛したとします。あなたより格下の評論家がそのワインを酷評したとしても、世間は世界最高権威のあなたの意見を尊重します。
そのグラスワインはたちまち1本30,000円に跳ね上がるかもしれません(あるグラスワインの価格がイギリスの有名なワイン評論家がほめただけで10倍以上高騰したという話は実話です)。
さて、今ワイン評論家の話をしましたが、ビンテージものの高級ワインはともかく、私たちが日常、飲んだり食べたりする飲み物や食べ物は、もっと主観的な評価でいいはずです。
自宅で自分が作った料理を食べて、自分がおいしいと感じたら、それはおいしいのです。
評論家がおいしいと判定しなければ、おいしいとは認められない、というものでもないでしょう。
自分がおいしいと思っても、他人に食べさせたらまずいと感じることもあります。
どちらが絶対正しいとか、絶対まちがっているというものでもないでしょう。
主観的な価値観、つまり自己満足で十分なのです。
私たちは自己満足は意味がないと思いがちですが、よく考えると主観的な好き嫌いで、人生の大半を選択しているかもしれません。
自己満足的な価値観はこれからの時代、少しずつ復権してくるような気がします。
一般に否定的な意味で使われます。
辞書で調べると、自己満足はひとりよがりと同じと説明されていますが、私の個人的語感は以下です。
ひとりよがり <= 自己満足 <= 権威評価
つまり自己満足は権威からの評価に及ばないものの、ひとりよがりより少しましという考えです。
自己満足が権威評価とイコールになるのは、たとえばあなたが世界一権威のあるワイン評論家だった場合です。
あなたが1本2,000円程度のあるグラスワインを絶賛したとします。あなたより格下の評論家がそのワインを酷評したとしても、世間は世界最高権威のあなたの意見を尊重します。
そのグラスワインはたちまち1本30,000円に跳ね上がるかもしれません(あるグラスワインの価格がイギリスの有名なワイン評論家がほめただけで10倍以上高騰したという話は実話です)。
さて、今ワイン評論家の話をしましたが、ビンテージものの高級ワインはともかく、私たちが日常、飲んだり食べたりする飲み物や食べ物は、もっと主観的な評価でいいはずです。
自宅で自分が作った料理を食べて、自分がおいしいと感じたら、それはおいしいのです。
評論家がおいしいと判定しなければ、おいしいとは認められない、というものでもないでしょう。
自分がおいしいと思っても、他人に食べさせたらまずいと感じることもあります。
どちらが絶対正しいとか、絶対まちがっているというものでもないでしょう。
主観的な価値観、つまり自己満足で十分なのです。
私たちは自己満足は意味がないと思いがちですが、よく考えると主観的な好き嫌いで、人生の大半を選択しているかもしれません。
自己満足的な価値観はこれからの時代、少しずつ復権してくるような気がします。
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