2018年6月10日日曜日

トロン陰謀論について

 さて、数年前、リチャード・コシミズ氏のブログに「トロン陰謀論」について情報を持っている人の意見を募集していました。
 日航機123便にトロン関係の技術者が搭乗していて、PC市場でのトロンの普及を阻止すべく、米国が無人機を衝突させて123便を墜落させたのでは、という仮説です。
 私自身、陰謀論に関する情報は何も持っていないので、そのときは回答できませんでしたが、とりあえず知っている情報だけをまとめて意見を述べてみようと思います。

 まず「トロン陰謀論」の結論からすると以下の通りです。

①トロンが国内市場または世界市場でPCの標準OSにならないよう、米国が政治的圧力をかけた?
②日航機123便墜落以降、結果的にトロンは衰退した?
③日航機123便にトロン関係の技術者が搭乗していた?

①はYES、②はNo、③はわかりません。これが私の回答です。


1. 米国の政治的圧力とトロン

 まず①についてですが、これは陰謀論でもなんでもなく、私が90年代初めに読んだ市販の本に書いてありました。それも政治や陰謀論の本ではなく、PC業界のビジネス書です。
 日米半導体協定のときに、米国商務省としてはユニックスをコンピュータの世界標準OSにしたいため、その対抗馬となる日本のトロンを普及させないよう政治的圧力をかけたとのこと。
 そのビジネス書には前書きか第一章にさりげなく簡潔にそう書いてあっただけで、それ以降はユニックスの技術的な特徴について解説していました。
 ここで注目すべきは米国政府はウインドウズでなくユニックスを標準OSと予想していたことです。
 当時、ユニックスはIBM社とサンマイクロシステムズ社の二大陣営に派閥が分かれており、いずれかのユニックスがコンピュータの標準OSになると誰もが考えていました。ところがマイクロソフト社がウインドウズNTを開発すると状況が一転、IBM社とサンマイクロシステムズ社は対立を解消しましたが、時すでに遅し。マイクロソフト社のウインドウズがOSのデファクトスタンダードになってしましました。
 私がここで主張したいのは、ITやエレクトロニクスのデファクトスタンダードは日本対米国といった国家間だけでなく、民間企業間の対立や、さらには官対民の確執もあるということです。


2. μITRONの活躍

 次に②ですが、トロンが世間で最も騒がれた時期はいつでしょうか。私の記憶では日航機墜落の数年後だったと思います。
 日航機墜落は1985年。その二年後に1987年だったと思いますが週刊朝日でトロン特集をやっていました。技術用語であるトロンが一般マスコミの週刊朝日に取り上げられたのです。私の記憶ではこのあたりが一般マスコミのトロンブームのピークです。
 一般マスコミのトロンブームは90年くらいにはすでに消滅していたと思います。しかし業界内のトロンの普及はこのあたりから始動します。

 実はトロンはもともと組み込みOSです(当時はリアルタイムOSという呼び方が一般的だったでしょうか)。
 それが当時の通産省(現在の経済産業省)の思惑で本来の組み込みOSをIトロンとし、ビジネス向けのBトロンや通信向けのCトロンなど、トロンの概念を無理やり拡張し、国産OSのトロンであらゆるジャンルを網羅しようとしたのです。
 Iトロン以外のトロンは時間がたつごとに自動消滅した感がありますが、肝心のIトロンは一般マスコミがトロンを報じなくなってから、組み込みマイコン市場で躍進したのです。
 
 μITRON2.0準拠という記述を私はいたるところで目にした気がします。
 国内メーカーのセットトップボックスをはじめ、32ビットマイコンのリアルタイムOSとしてトロンはシェアを広げました。
 90年代、トロンはリアルタイムOS分野では世界市場でPSOS、Wind riverに次いで三番目で15~20%前後、国内市場では80%のトップシェアでいわゆる内弁慶型でした。PCではウインドウズがガリバー型寡占でシェアを独占していますが、リアルタイムOS市場は小党分立で、上記ベスト3以降は、様々な無数のOSが群雄割拠している状態でした。
 トロンはハイエンドのTカーネル、ローエンドのトッパーズというふうに大別され、いずれも国内電機メーカーには積極的に採用されました。

ネットでは日航機123便にトロン関連技術者が17人乗っていたという記述を複数個所から目にします。私にはその真偽はわかりません。しかしながら、トロンの真の全盛期は日航機墜落から10年たった90年代だと言えることはまちがいありません。
 

3. 8ビット、16ビット向けトロンの開発を

 しかしながら組み込みリナックスの発展で、今日ではトロンは衰退しました。
 ここからは私個人の提案ですが、32ビットでなく、8ビットや16ビットのマイコン向けにトロンを改良するのはどうでしょうか。
 トッパーズは組み込みプログラマから見ればOSというより、C言語のライブラリです。
 スマホが普及し、32ビットARMが普及した昨今、組み込みOSもアンドロイドやiOSのようなPC向けOSに近いものであることが求められ、トロンは時代遅れになりました。
 しかしながら、8ビットや16ビットマイコンの用途はたくさんありますし、特に16ビットDSPは、32ビットARMと比べ、処理能力的に大きく負けているわけではありません。

 国産マイコンに軒並みトロンをポーティングし、国内中小零細メーカーが容易に製品を開発できるよう、支援するのはどうでしょうか。
 

2018年4月5日木曜日

プロ文芸評論家不要論

 ネットサーフィンすると、評論家不要論が目立ちます。
 ネットで普通の人が不特定多数の大衆に自由に発言できるようになった今日、あえて専門家の意見だけを特別扱して拝聴する必要があるのか。こういう意見がネット上に散見します。
 もちろんこれとは真逆の意見、すなわち、無知な一般大衆が評論家気取りで素人意見を述べるのは言語道断だ、といった主張もあります。ただこうした評論家擁護論はネット上では少数派のようです。

 政治評論家、音楽評論家、映画評論家、ラノベ評論家はそれぞれ不要といった不要論を私はこれまでネット上に見つけました。
 しかしながら、文芸評論家に関しては唯一、擁護する意見の方が根強いようです。同じ小説でもラノベは評論家不要で、一般小説だけ評論家が必要なのでしょうか。


1.アマゾンの消費者行動にみる文芸評論家の立ち位置

 アマゾンなどネットで書籍を購入する場合、すでにその本を読んだ人の書評を読むことができます。私たちがその本を購入するかどうかを決めるのに、こうした書評が参考になることがあります。
 ところでアマゾンの書評を書いているのは誰でしょうか。一般にプロの評論家でなく、私たちと同じアマチュアの読者と言っていいでしょう。
 同じ書籍でも特に小説の場合、一般消費者目線の感想の方が、専門家の見解より自分にはしっくりくる。そう思う人が多数派なのではないでしょうか。
 プロの文芸評論家は普通の人より、様々な文芸作品を多読し、難解な哲学書や原書を理解し、海外留学など高い学歴を持っているかもしれないが、彼らと同じくらい見識を積まなければ彼らの境地に至るのは不可能だろうし、むしろ自分と等身大の人が面白いと思う小説が、単純に、自分が読んでも面白いのではないか。
 アマゾンで小説を買う際、一般消費者がこうした考えで消費行動を起こしているとしたら、やはりプロ文芸評論家は不要ということになります。


2.文壇内の文芸評論家不要論

 ネットで発見したのですが、保坂和志、高橋源一郎の両氏が文芸雑誌で文芸評論家不要論を唱えたとのこと。自分で小説を書いてない評論家は、小説を評論する資格がない、というようなことを述べたようです。
 両氏とも小説家兼評論家ですので、自分たちは評論する資格があるという意味なのでしょうか。
 いずれにせよ、文壇内からこうした意見が出てくるのは興味深いと思います。
 これに対し、既存の文芸評論家から反論もあったようです。
 また例によって、この業界特有の”言葉遊び”的なわけのわからない議論の応酬が、相も変わらず両者の間でなされたのではないかと想像します。
 
 私自身は文壇において文芸評論家が不要なのかどうかわかりません。ただし、文芸評論家に対して昔から物申したいことが一つあります。


2.よい文章のドグマは三種類?

 ところでよい文章とは何でしょうか。実は業界ごとによい文章、悪い文章の基準が異なるように思えます。私が知るかぎり以下の三種類の文章ドグマがあるように思えるのです。

①文学・哲学の文章ドグマ
 頭がいい筆者ほど語彙力が豊富なので難しい文章が書ける。難しい文章を読んで意味がわからない読者は頭が悪い。言葉は数学の記号と違い、抽象的で曖昧な概念を持つが、この言葉の性質を極力生かして文章を書くべき。
 
②法律・省令・公文書の文章ドグマ
 よい文章とは決められた表記と表現を用い、言葉の持つ曖昧さを極力排除した論理的かつ客観的文章を指す。したがって読者が正しく文章を理解すれば、数学の問題を正しく理解するのと同様、ほぼ完全に一致した内容を取得できる。ただしこれらの文章は、世間一般の平均的知能の持ち主には理解できない難解さがある。

③ビジネス・世間一般の文章ドグマ
 わかりやすい文章ほどよい文章。わかりにくい文章は悪い文章。頭のいい筆者ほど難しい概念をわかりやすく簡潔に表現できる。逆にわかりにくい文章しか書けない筆者は頭が悪い。

 どのドグマが正しいか、一概には言えません。
 文芸評論家は①のドグマを信奉して文章を書きます。小説でも詩歌でも言葉の持つ曖昧さを武器に芸術作品を作るわけですから、創作の文章を書く際、①でなければ成立しないジャンルですが、評論までこれと同じでなければならないのでしょうか。
 彼らはなぜ②または③のドグマで文章を書かないのでしょうか。

 80年代末のことですが、小林秀雄が亡くなったとき、朝日新聞の書評で、小林秀雄の評論はこれからも作品として価値を持つといったことが書かれていました。 
 評論が作品? 何かトートロジーのような気がします。
 ここからは私の解釈ですが、これは小林秀雄の文章が難解であることを短所でなく、長所として捉えた追悼文だったのではないかと思います。

 世の中にはスタニスワム・レムの『完全な真空』や筒井康隆の『文学部唯野教授』といった作品があります。評論のスタイルをとった小説です。
 もし作品としての価値を持たせたいなら、評論ではなくこうした作品を書くべきではないでしょうか。
 思想書や哲学書はともかく、純粋な評論はあくまで小説という対象に対して書かれるべきものだからです。
 こうした理由から、私は②または③、特に③のわかりやすい文章で書かれた文芸評論がもっと世に出てきてほしい、と考えています。


3.文芸評論もアマチュアリズムで

 私の結論としては、プロの文芸評論家はもっとわかりやすい文章で書いてほしいと思いますし、文芸評論の書籍が一般に売れないのは、何が書いてあるかわからないからだと思います。
 その一方で、アマチュアの評論は何を書いても自由です。
 ただし読者の方では、これはあくまで素人意見で、まちがっているかもしれないと疑いながらアマゾンの書評を読む必要があるでしょう。


2018年3月24日土曜日

『日本左釿門がゆく!』梗概


 八代将軍吉宗の治世下、天下の大泥棒、日本左衛門が江戸を中心に諸国を荒らし回っていた。
 この日本左衛門、実は浜島庄兵衛という人形浄瑠璃〈白波座〉の旅芸人(傀儡)だった。また日本左衛門一家の一味も〈白波座〉の面々だったのである。
 本編は〈白波座〉が江戸・日本橋を出発し、表向きは人形浄瑠璃を興行しながら、東海道の宿場町を回り、京に至るまでを描いたオムニバス形式の物語である。

第一幕 日本橋 〈白波座〉が東海道沿いの道端で人形浄瑠璃の興行をしていると両替商〈沢村屋〉の主人喜平が今晩、自分の屋敷に来て芝居をすれば蔵屋敷に泊めてやると誘う。座長オセンノオバは二つ返事で了承する。
 夜になると庄兵衛たちは〈沢村屋〉に盗みに入る。鎖釜の幸吉など店の用心棒たちと死闘の末、千両箱を盗み出す。用心棒と格闘しているときに行灯が倒れ、屋敷が火事になる。庄兵衛たちは目明かしに追われながら、日本橋川の伝馬船に乗り込み、江戸を後にする。

第二幕 平壌
 庄兵衛はある日、一人で旗本・青木又衛門の屋敷に忍び込む。屋敷にある
高価な茶壷を盗むためである。ところが屋敷にはお京という女が夫の仇討ちのため忍び込んでおり、又衛門だちと戦っている。
 庄兵衛の助太刀も加わりお京の仇討ちは成功し、庄兵衛は茶壷を盗む。一旦二人はそこで別れる。だが平塚の旅籠で二人は偶然再会し、男と女の関係になる。
 一方、又右衛門が斬られ、茶壷が盗まれたことを尾張藩の忍者セブリが嗅ぎつける。この茶壷はもともと尾張藩主、徳川宗春が又右衛門に与え、その見返りに公金横領を企んだ経緯があった。この秘密を二人が知ったかもしれない。そこで宗春はセブリに二人を殺すよう命じる。
 セブリは旅籠で庄兵衛に襲いかかり背後から首をしめるが菊之助か例の茶壷でセブリの頭を割り、窮地を救う。セブリは頭を抱えて逃げ出す。
 かくしてお京は〈白波座〉に加わり、庄兵衛だちと旅をする。

第三幕 小田原
 宗春とセブリはし小田原藩の家宝、顔真卿の書を盗み出し、しかも盗んだ賊が日本左衛門に見せかける工作を企む。
 セブリの手下、ウエツフミが日本左衛門に化けて小田原城に侵入し、顔真卿の書を盗む。藩主、大久保忠興は城の門をすべて閉じ、ウエツフミを出られなくしてしまう。
 実は小田原に人形浄瑠璃の興行に来ていた庄兵衛たちは人相書きから日本左衛門と疑われ、小田原城の土牢にすでに捕まっていたのである。ウエツフミ扮する日本左衛門が現れたことで庄兵衛たちの容疑は晴れて釈放され、お詫びとして忠興は馬を与える。
 事情をすべて聞き、まだウエツフミが城内に潜伏していると推理した庄兵衛たちは、池の中にいたウエツフミを見つける。小田原城の天守閣の屋根に逃げたウエツフミを庄兵衛は追いかけ、屋根の上で格闘して倒す。庄兵衛はウエツフミの懐に顔真卿の書を見つけ、こっそり盗む。庄兵衛たちは小田原城を出る。

第四幕 箱根・Ξ畠
 忠興は庄兵衛こそ本物の日本左衛門で、彼が顔真卿の書を最終的に手に入れたことに気づき、箱根の関所に厳戒体勢を命じる。日本左衛門にここを通過させないためである。庄兵衛たちは馬を使って突進し、関所破りを強行する。ちょうど関所の上方口では長崎奉行所の役人たちが一頭の象を連れてきていた。将軍吉宗にこの珍獣を献上するためである。庄兵衛たちの馬を見て興奮した象は暴れだし、関所内はパニックになる。このどさくさにまぎれ、庄兵衛たちは関所を越えるが、仲間の赤星が関所の役人に斬られ、お凛が背中に傷を追う。
 庄兵衛が関所を突破したことを知ったセブリは手下でシャム双生児の少年忍者、ユマル・ソマルを刺客に送り込む。三島の木賃宿に着いた〈白波座〉は早速、人形浄瑠璃の興行に出かけるが、怪我をしたお凛と庄兵衛の二人が留守番する。そこをユマルーツマルが襲いかかる。庄兵衛の背後からユマル・ソマルが首を締めるとお凛は庄兵衛の銀太刀でこの少年忍者に斬りつける。血だらけのユマル・ソマルは千枚通しでお凛の胸を刺し、逃げる。
だがユマル・ソマルは逃げている途中、お凛は庄兵衛の膝の中でそれぞれ命を落とす。

第五幕 島田・金谷
 島田で神通力を使う羽黒修験者、南郷力丸が〈白波座〉に入る。大井川を越え、金谷に着くと庄兵衛が一計を案じる。まず呉服屋〈松屋〉に客のふりをして庄兵衛と南郷が現れ、店の番頭に言いがかりをつけ、金を脅しとろうとする。すると菊之助たちが入ってきて庄兵衛と南郷を追い出す。すっかり店の主人、松村幸兵に気に入られた菊之助は他の〈白波座〉の面々とともに今夜は〈松屋〉に泊まることになる。
 ところが幸兵と夕飯を食べ、話をしているうちに菊之助は幸兵が自分の実の父であることに気づく。昔、赤子の菊之助を幸兵が近所の神社に捨てたところオセンノオバが拾い、〈白波座〉で育てたのである。
 居酒屋で夜になるまで時間を潰していた庄兵衛と南郷が〈松屋〉にやってくる。示し合わせでは屋敷に泊まった菊之助か金目のものを持ち出し、朝になる前にみんなでずらかる手はずになっていた。だが菊之助は何も盗まずに〈松屋〉を後にする。

第六幕 宮
 〈白波座〉の人形からくり師、忠信利平が尾張で評判になり、宗春に名古屋城に呼ばれる。忠信はからくり人形を披露し、最後に等身大の男女兼用お契り人形、菊丸を見せ、宗春に献上する。実はこの菊丸は菊之助か人形に変装したものだった。倉庫に連れて行かれた菊之助か城内の大判小判を盗んでいる間、大凧に乗った庄兵衛とお京が天守閣の屋根から名古屋城に忍び込む。セブリをはじめ、城内の侍たちをやっつけた庄兵衛とお京は金を盗んだ菊之助を連れ、再び大凧で空を飛ぶ。最後に天守閣の金の鯱も盗み、凧にぶら下げる。大判小判は行李に入れ、凧に吊したが、行李に穴が開いていたので凧が空をとんでいる間、中のものがこぼれ落ちる。宮宿の町人たちは空から大判小判が降ってきたので大喜びする。

第七幕 京
 江戸の大泥棒が日本左衛門なら上方の大泥棒は七福神盗賊だった。京に着いた庄兵衛たちの前に、ビシヤモンを頭とする七福神盗賊が現れる。明後日、薩摩藩の大名行列が三条大橋を通るが数千両の金を持ち歩いているはずなので、一緒に協力して強奪しようという話だった。庄兵衛は二つ返事で了承した。かくして二日後、大名行列を襲いかかった日本左衛門と七福神盗賊は金紋箱四合を盗み出した。
 金紋箱四合のうち二合を庄兵衛たちがもらう約束だったがビシヤモンたちは一合だけ渡し、伝馬船で高野川を北上する。怒った南郷が伝馬船に近づくとビシヤモンは槍で南郷を殺す。庄兵衛たちは鉄砲を撃って伝馬船の船底に穴を開ける。ビシャモンと庄兵衛は川に飛び込む。水中で格闘の末、庄兵衛はビシヤモンを倒す。
 〈白波座〉は京を立ち、今度はまた江戸に向かって東海道を歩いていく。オセンノオバはとうに亡くなった夫の三郎兵衛爺さんの夢を見、お凛、赤星、南郷ら死んだ仲間に思いを馳せ、涙する。


2018年3月4日日曜日

BF vs RK vs さゆ 陰謀論者が説く世界の未来と日本の未来

 さて、平昌オリンピックも終わり、裏社会の変革待ったなし。
 これから世界と日本はどうなるのか。

1.朝鮮半島統一か、米朝戦争勃発か
 ベンジャミン・フルフォード(以下、BF)によると、北朝鮮と大韓民国は統一するという。北朝鮮のキム家が世襲にして国家元首の天皇になるとのこと。
 一方、リチャード・コシミズ(以下、RK)によると、米国が北朝鮮にミサイルを撃ち込むという。
 果たしてどちらの予言が正しいのか。
 これは小生の直感だが、BFの方が当たりそうな感じがする。あるいはしばらくの間、何も変化が起きないという可能性も大きいと思う。
 
 BFはただのジャーナリストでなく、白龍会主催であり、裏社会、権力中枢の中の人、という感がある。かつてデイビット・ロックフェラーと握手し、二人で個室に入り、取材している動画もユーチューブにアップされた。
 朝鮮半島統一後、BFはどうやら日本と朝鮮半島を統一させたがっているようだ。キム・ジョンウンが独身なので、日本の皇室から嫁をもらい、両家を合体させ、日本と半島の両方の天皇を同一人物にさせたい、というのがBFの目論見のようだ。
 こうした皇室関係のBFのアイデアは、中丸薫との人脈から出てきたのではないか。もしかしたら昨今の眞子様と小室圭氏との婚約延期ニュースも、眞子様をキム・ジョンウンに嫁がせる布石か。そんなふうに邪推してしまう。

2.世襲王朝は二つとも廃止が理想か
 南北朝鮮半島を統一し、かつ日本もそれに統合するという考えに自分は賛成だ。大日本帝国時代、これらの地域は一つの国だった。もっと言えば、台湾や南方諸島も日本だったのだ。 
 しかしながら、BFは北朝鮮のキム王朝と日本の天皇家を統合して存続させようと考えている。この考えには反対だ。
 ドイツは東の大統領を国家元首、西の首相を実質的な行政のリーダーにして統合した。西ドイツがコール首相の時代である。
 同様に、半島と列島統一後は大韓民国の大統領を国家元首に、日本の首相を行政のリーダーにして統合し、日本の福島か新潟あたりを首都にしてはどうか、と自分は考える。
 世襲である北朝鮮のキム王朝と日本の天皇家はこの機会に廃止してどうか。世襲の国家元首という特権階級の存在自体が民主主義の理念に反するし、人民から見て特権階級は極めて危険な存在になり得るからだ。
 ただし自分は現行の安倍政権は支持しない。一刻も早く安倍政権が終わり、別の内閣が生まれてから、半島と列島は統一するのが望ましいと思う。

 このような理由でBFの予想より、RKの予想、つまりトランプ米国大統領が北朝鮮政府を武力で滅ぼし、大韓民国が朝鮮半島を統一するというシナリオの方が、自分としては望ましい。キム王朝がそのまま自動的に消滅するからだ。
 一方、RKは日本の天皇制存続を支持している。ここが自分とは考えが異なる点だ。
 
3.精彩を欠く、さゆの現在
 ところで、もう一人の陰謀論系ブロガー、さゆふらっとまうんど(以下、さゆ)はどうか。
 RKに反旗を翻し、”輿水恵一”問題でRKを追及するところまでは大活躍だが、その後、精彩を欠いているように自分には思われる。
 RKを天皇派の勢力に取り込まれたと主張するさゆだが、さゆ自身は天皇批判をしているわけでもない。もう少し徹底した天皇批判をしてほしい。
 ”性の喜びおじさん”関連ニュース、見知らぬ子供に挨拶するSHA運動など、独自のテーマを追求するのはいいが、現在の国際情勢、政治経済情勢について、もう少し言及してほしい気がする。

 RKはさゆを統一教会など裏社会癒着系のブロガーとし、RKを貶め、独立党を分断・弱体化させることがさゆの目的だと説くが、最近のさゆの活動を見ると、そんなふうにも思えてくる。

4.未解決の不正選挙と”輿水恵一”問題
 では一方的にRKがさゆに勝利したのかと言うと、これも微妙。
 さゆによれば、不正選挙は総務省の仕業だという。総務省が実際の得票を無視して、あらかじめ用意していた偽の開票結果にすれかえれば、いくらでも不正選挙は可能になる。また総務省の選管に影響力を持っているのが公明党の衆議院議員、輿水恵一氏だという。この人物はRKの実家周辺の出身者で同姓であることから、親戚と思われる。親戚に不正選挙を実行できる人がいるということは、RKは裏社会に取り込まれているのではないか。これがさゆの仮説である。
 自分がネットを探してみるかぎり、さゆの仮説を覆す論拠はまだ発見していない(このへんの事情をご存じの方、コメントなどで教えてください)。

5.BFの後ろ盾は本当に正義の味方か?
 ところでBFの話を聞いていると、軍産複合体の軍、つまり米国軍(海兵隊)が正義の味方で、バザール・マフィア、サバタイ派マフィアが悪者という論調だ。
 これは権力中枢で派閥争いが起きているだけの気がする。果たしてBFの後ろ盾であるとされる米国海兵隊は、本当に日本の人民の味方になってくれるのか。ただ単に権力奪取後は、これまで同様、日本を気象兵器で攻撃したり、不正選挙で自分たちの傀儡を日本の政治家に据えるだけではないのか。
 そもそもBFがヤクザの親分、朝堂院大覚と親しいこと自身、あまり感心しない。
 
6.誰を信じればいいのか?
 上記のような理由から、BF、RK、さゆ。どの陰謀論系ブロガーも、真っ白というより、灰色の側面を持っている。
 BFはディープステートの中の人、RKは輿水恵一問題疑惑、さゆは国際政治情勢のジャーナリズムにほとんど取り組まない。
 では一体、誰を信じるべきなのか?
 一つだけ言えるのは、誰かを妄信するのでなく、すべての記事を自分の頭で考え、吟味することだ。これは表のジャーナリズムにも言える。
 マスコミから発信されるあらゆる情報には、真実と嘘が混在している。どれが真実でどれが嘘かは容易にはわからない。それを自らの見識で分類する知性が必要なのだ。
 これからの時代、ネットによる情報収集もさることながら、情報の真偽を見極める知性がそれにもまして重要になってくると思われる。


 

2018年3月2日金曜日

自選 ベスト映画20



1. ミツバチのささやき (西)
2. パリ、テキサス(独+仏)
3. 鉄男(日)
4. タイタニック(米)
5. デリカテッセン(仏)
6 電車男(日)
7. ロボット(印)
8. 神々の黄昏(伊)
9. ワンス・アポン・ア・タイム イン アメリカ (米)
10. ナイト・ウォッチ(露)
11. 千と千尋の神隠し(日)
12. ヴィドック (仏) 
13. レミーのおいしいレストラン(米)
14. 青い体験 (伊)
15. ブレードランナー(米)
16. Uボート(独)
17. 田園に死す(日)
18. 氷の微笑(米)
19. 少林寺(中)
20. ガメラ3邪神覚醒(日)

2017年4月19日水曜日

中上健次 文芸七番勝負

 早いもので没後四半世紀。昭和最後の文豪、中上健次について書いてみようと思う。
 ところで中上健次はどんな人物だったのか。私は個人的に、落語家、立川談志師匠の作家バージョンのような人物だったと理解している。つまり「芸は最高だが人間としては最低」の付き合いづらい人物である。
 業界では神と仰ぐ信者がいる一方、アンチも根強い。これは談志師匠も中上にも言えることだ。
 以下、中上健次について、文学論とその人物評も交えながら、言いたい放題のコメントを書く。


第一番勝負 中上健次 vs 柄谷行人/文壇の暴言ロード・ウォーリアーズ

 「なろう」では友人同士がグルになって互いに高得点をつけ合う行為を反則だ、という意見がある。だが80年代、同じような”反則”を実際の文壇でやっていた作家たちがいた。中上健次と柄谷行人の二人組だ。
 彼らはよく文芸雑誌で対談し、小林秀雄や村上龍を批判するなど、自分たちの競合作家の徹底的なネガティブキャンペーンを行った。ネガティブキャンペーンの目的は、おそらく自分たちの作品を売り込むためだろう。
 もちろん言論の自由であり、誰の作品を批判してもかまわないが、彼らの対談は、2ちゃんねるの誹謗中傷を少しだけ知的でお上品にしたレベルで、文芸評論のまともな批判とはいいがたい。彼らはただ貶める対象の作家をつまらないと連呼しているだけで、その理由をきちんと説明していない(感想、反論お待ちしています)。
 当時、日米のプロレス界ではロード・ウォーリアーズという無敵のタッグチームが人気を独占していたが、二人はまさに文壇のロード・ウォーリアーズよろしく、強くて悪くてひどいやつらだったのだ。

 それにしろ、二人はどんな関係なのか。ネットで調べたところ、嘘か本当か、中上と柄谷はもともとキャッチボール仲間だったという。キャッチボールだけで文壇ジャックを共謀する友情が生まれるものなのかわからないが、お互いにいいタッグパートナーを見つけたものである。
 中上健次と柄谷行人――それは最強にして最凶の文芸タッグチームだ。


第二番勝負 中上健次 vs 大江健三郎/実力No.1はどちら?

 かつて柄谷行人は、大江健三郎の小説(『同時代ゲーム』あたり?)を文化人類学者の論文と評し、中上健次の作品を文化人類学者の研究対象そのものとし、例によって中上の小説の方が面白いと評論した(らしい)。柄谷の中上評はステマのようなもので真に受ける必要はないが、それにせよ、「文化人類学の研究対象そのもの」という表現は、中上を未開部落の”土人”か”類人猿”扱いしているようで、言いえて妙だ。
 ところで私は現代日本作家で一人称小説の最高の作家が大江健三郎、三人称小説の最高の作家が中上健次だと理解している。一人称小説は「文化人類学者の論文」的だろうし、三人称小説は「文化人類学の研究対象そのもの」だろう。
 大江と中上、どちらがすごいのか、甲乙つけがたい。

 中上はフォークナーの影響を受け、田舎が舞台の土着の小説を書いた、というのが一般的な中上評のようだ。だか私はフォークナーを読んだことがないので真偽はわからない。また紀州の田舎や被差別部落を描くことが中上文学の長所とも思っていない。
 すべての中上の小説が紀州を舞台にしているわけではない。たとえば『賛歌』という作品がある。新宿を舞台に性風俗で働く男が主人公だ。都市を舞台にしても重厚な中上文学ワールドは成立する。
 これは私の個人的見解だが、中上文学の真の魅力は、もっと単純に三人称小説の方法論がすぐれているということにつきる。わかりやすく言えば、描写をさぼらず、まじめに小説という散文を書いているということだ。描写をさぼらないとはどういうことか。それは一場面一場面を長く書くことであり、登場人物の動作をそれこそ一挙手一投足まで細かく描くといことだ。
 また中上の文体は他の優れた作家同様、個性的で独特の”味”がある。

 中上は文章で勝負する作家だが、キャラクターでは勝負しない。緻密な人物描写は怠らないが、個人的に魅力あるキャラクターがいないのだ。
 「岬」、「枯木灘」、「地の果て 至上の時」はシリーズもので、主人公、竹原秋幸は若き土方の親方だ。
 また「千年の愉楽」、「奇蹟」もシリーズものだ。主人公、オリュウノオバはお産婆さんで、肝っ玉母さん的なキャラクターだ。
 私個人的にはどちらのキャラクターにも魅力は感じない。
 ところでオリュウノオバシリーズの方は純文学というより、幻想小説、もっと言えばモダンホラー的な作品だ。人面犬が登場する「熊野集」もモダンホラーといってよい。
 モダンホラーは圧倒的な文章力を作家に要求する。この意味でも中上はキャラクターでなく、文章で勝負する作家と言えるだろう。
 
 さて、さんざんけなした前述の柄谷の中上評だが、これには続きがある。柄谷曰く、今後、新しい文学は中上の何かをパクらなければ生まれない、といようなことを述べていた。これを自分流に解釈すれば、三人称小説は中上文学のように、描写をさぼらずに書きなさい、ということだ。
 被差別部落の”路地”でなく都会を舞台にしてもいいし、上流階級や都市生活者を主人公に小説を書いても中上文学の長所は踏襲できる。ただし文体は小説全体の雰囲気にマッチングするよう、感性を働かせることが肝要だ。そうでないと中上文学のよさはパクれない。


第三番勝負 中上健次 vs 村上春樹/実力No.1はどちら?

 作家は評論家のための作家と読者のための作家に二分されると言われる。中上は典型的な前者だ。一方、後者の代表は、80年代では赤川次郎、純文学系に限定すれば村上春樹だろう。
 村上春樹は今でこそ万年ノーベル賞候補作家だが、鼠三部作時代はあまり評論家からほめられなかった。だが本は売れている。それで業界としても春樹を評価せざるを得なくなり、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で谷崎潤一郎賞を与えた。
 『ノルウェイの森』発売当時、中上は雑誌のインタヴューで「春樹が大衆に媚びている点を批判したい」といったような、例によって辛口コメントを発したのを覚えている。
 世代的に考えれば、春樹のライバルは中上でなく、村上龍あたりか。ところで春樹は一人称小説家、龍は三人称小説家と私は個人的に理解している。同じ三人称小説つながりでは中上のライバルは龍、一人称小説つながりでは春樹のライバルは大江ということになる。
 春樹は大江にくらべ、さまざまな表現が可能な一人称小説の方法論的な「おいしいところ」がわかってないのでは、と思っていたが、最新作『騎士団長殺し』では、方法論で春樹はついに”大江越え”を果たした、というのが私の感想だ。


第四番勝負 中上健次 vs 古井由吉/中上に勝てる唯一のB級文豪
 
 ところで古井由吉という作家をご存じだろうか。こう書いておいて実は私自身、古井のことはよく知らない。ただ文学通を自認する知人たちがよく褒める作家だ。B級文豪といったところか。
 私は短編集を1冊しか読んだことがない。近所の家からてんぷらの臭いがするので迷惑だ、といった他愛ない私小説で、個人的にはつまらなかったが、その一方で、この作家に最高評価点をつける人が業界にはいるのではないか、という感想を持った。
 芥川賞は新人作家向けの賞で1回受賞したら二度と受賞できない決まりだが、何回でも受賞できるルールにしたら、毎年受賞しかねないのがこの古井由吉だ。おそらく芥川賞通算受賞回数の最多記録を更新するのではないか。中上もまた複数回受賞しそうな作家だが、古井の通算記録には及ばないだろう。
 芥川賞の通常の採点基準で作品を評価した場合、純文学の私小説の理想像に古井の小説は完璧に合致しているのだ。
 だが古井の小説がおもしろいかつまらないかと聞かれたら、私はつまらないと答える。
 もし本屋で中上と古井のどちらかの本を買わなければいけないと言われたら私は中上を選ぶ。統計をとってもおそらく一般読者は中上の方を選ぶのでなないか。そして中上より春樹を選び、春樹よりラノベを選ぶのが、一般読者の行動様式だ。
 おそらく古井文学がわかる人は真の文学通、そうでない人は文学音痴なのだろう。そしてこの基準が正しければ私個人は文学音痴に分類される。


第五番勝負 中上健次 vs 井上光晴/別の意味で中上に勝った全身小説家

 古井由吉は短編集を1冊読んだが、作品を一つも読んだことがないのが全身小説家、井上光晴だ。
 ところで中上は、多くの作家や評論家、編集者が集まる文壇バーでは”不良番長”になる。
 若手はもとより、ときには先輩作家にもからむ。勉強熱心な中上は周囲にいる作家の作品を片っ端から読んでいて、「おまえのあの小説はつまらない」とからんでくる。まさに”文学的不良”だ。
 これに対し、酒が入ると井上はただの”不良”になる。若い美人女流作家を見つけるとセクハラしてくる。はしゃぎぶりも、態度のでかさも、中上より井上の方がやや上だ。
 だがこの全身小説家、しらふのときは知的で理性的なB級文豪なのかもしれない。
 奇しくもこの二人の文壇の”不良番長”は同じ1992年に亡くなっている。


第六番勝負 中上健次 vs 島田雅彦/業界お墨付きの”打倒中上”エース作家

 一人の作家が文壇に登場すると、別の一人の作家が文壇から消える。これは某ベテラン編集者の弁である。
 彼によれば、島田雅彦が台頭してくると中上健次が零落していくという。文壇はイデオロギー対決の場で、両者は思想が真逆だから、片方がもう片方を食う結果になる......。
 ”重厚長大”な中上文学と”軽薄短小”な島田文学。確かに真逆にも思えるが、島田の台頭以前に出版不況で、現在では島田もろとも文学界全体が沈下していったのではないだろうか。

 私個人の解釈では浅田彰の小説家バージョンが島田雅彦。島田雅彦の思想家バージョンが浅田彰と理解している。
 浅田彰の思想であるスキゾキッズとは、私の解釈では、昨日はキリスト教を信じ、今日は仏教を信じ、明日は共産主義を信じる......といったミーハー思想だ。虚無主義や無思想ともまた違う。
 哲学など何も知らないミーハーな大衆にくらべ、哲学を一通り”お勉強”した上で、AKB48の握手会に参加するなど、ミーハーと同じ行動様式にたどり着いた思想家が、スキゾキッズなのである。
 島田雅彦の作品は初期のものしか読んでないが、ラノベの走り、またはラノベと純文学の中間領域の作品と理解している。またミーハー色が強いが、ある種の”思想小説”になっている点が評価できる。

 とは言え、龍や春樹の村上文学の方が島田文学よりも自分の感性に合っている。
 

第七番勝負 中上健次 vs アルチュール・ランボー/文芸評論は”中上流”で

 ところで中上のランボー論をご存じだろうか。某編集者によれば、中上の勝手な”自己流”評論で、書いてあることは滅茶苦茶だと言うが、私も同意見だ。同じランボー論なら小林秀雄のそれの方がましだ。
 学生時代、私は背伸びしてペーパーバックのフランス語の原書を買ったことがある。『地獄の季節』だっただろうか。結局、ページにして3ページ程度、お気に入りの詩を一つだけがんばって読んでみた。声に出してフランス語を読んでみると、なんとランボーは韻を踏んでいるのだ。
 韻を踏んでいるとなると、外国語の詩歌など、翻訳では本当の魅力は味わえない、と思った瞬間だった。

 で、そんな自慢話はともかく、中上の文芸評論は”自己流”が多い。だとしたら、中上文学を語るのは”中上流”=自己流で言いたい放題やるのが流儀にかなっているのではないか。

 ......という屁理屈で、中上健次について”中上流”で論じてみました。感想、反論ある方、歓迎します。

                                          (了)

2016年12月24日土曜日

領土問題について

 最近、プーチン大統領訪日で、マスコミは北方領土問題を話題にしている。
 北方領土を返さないからロシアが悪いという、毎度おなじみの議論が繰り返されて半世紀以上。
 進展が少しもないのはいい加減辟易する。
 領土問題自体にではない、マスコミの論調にだ。

 我が国の領土問題は北方領土以外に尖閣諸島、竹島がよくマスコミの話題になる。


1. 辺境の離れ島はくれてやれ!

 領土問題に対する私の率直な意見はこうだ。
 尖閣諸島は中国、竹島は韓国、北方領土はロシアにそれぞれくれてやっても構わない。
 あんな辺境の土地のおかげで隣国との友好関係が妨げられているのは無意味だ。
 ましてやあんな離れ島のせいで、日本と隣国間に戦争が勃発してはたまらない。

 東京、大阪、名古屋のような大都市を外国がぶんどろうとしているならいざ知らず、なぜあんな離島の所有権にこだわるのか。

 尖閣諸島はご存じだろうか。
 釣島はアホウドリしか住んでない無人島だ。
 こんな無人島のために日中戦争をけしかけようと国民を情報操作する最近のマスコミには、心底憤りを覚える。

 それにくらべ、竹島は完全な無人島ではないが、記念碑が建っていたり、おみあげ売場があるだけで、ほぼ無人島に近い。おみあげ売場には「独島(竹島の意)は韓国領だ」とハングル文字で書かれたTシャツを販売しているという。
 私に言わせれば、竹島は、秩父の山の頂上に建てられた山小屋と同レベルの観光地である。家が近くなら休日に遊びに行ってもいいかもしれないが、遠方からはるばる旅行するほどの場所ではない。
 

 そこへいくと北方領土は一番まともだ。ネットで検索するとロシア風の美しい洋館や、埠頭に佇む美しいブロンドの美女の写真が見つかる。
 だがそれもロシア領ならではの風景かもしれない。ウサギ小屋に住まわされている日本人は、欧米の住宅の大きさを認識すべきだ。
 日本人が彼ら並みのまともな家に住むようになって、はじめて日本領も北方領土のような美しい洋館が立ち並ぶ街並みになるのではないか。


 尖閣諸島や北方領土は周辺の海域で石油が採掘できる、という人がいるかもしれない。
 だが私は石油には興味がない。
 原発と火力発電をなくしても、エネルギー問題は解決できる、いや、解決すべきだというのが私の考えだ。
 現在開発された技術を駆使するだけでも、再生可能エネルギーだけで七割近く解決できる。新エネルギーを解決すれば、もはや石油には用はない。
 本題からはずれるので詳細は記さないが、これが私の持論だ。

 いずれにせよ辺境の離れ島、すなわち北方領土、尖閣諸島、竹島は外国にくれてやり、その分、日本は平和を獲得すべきだ。


2.むしろ横田基地返還を
 
 外国から領土を返してもらうなら、むしろ、在日米軍基地を撤廃して、基地の土地を米国から返却してもらう方がよほど国益にかなっている。

 たとえば東京多摩地区に住む住民にとり、一番返還してほしい土地は横田基地である。
 横田基地の土地は民間が自由に利用できる国際空港にしてはどうだろう。
 わざわざ遠方の成田空港に行かなくても海外旅行ができる。羽田空港に行かなくても、北海道旅行や沖縄旅行が楽しめる。

 ここで考えてほしい。
 尖閣諸島、竹島が返還されても日常生活で利便性を感じる日本人はほとんどいない。北方領土はこれら二つより少しましだが、それでも大したことはない
 だが横田基地返還の場合、東京都民、神奈川県民、埼玉県民のライフスタイルに多大な影響を与えるだけでなく、日本経済向上に大いに貢献するはずだ。

 在日米軍基地を国内から撤廃したら、外国が攻めてくるのではないか。
 こういうことを心配する人もいるだろう。
 だが後述するが北朝鮮は実質、米国の植民地で、米国の命令でテポドンを日本向けに配置しているのである。
 在日米軍基地は日本を守っているのではなく、”思いやり予算”などで日本から搾取しているのだ。



3. 朝鮮半島の領土問題意識を

 ムーパルチャンネルの番組「国家非常事態対策委員会」で最近、ベンジャミン・フルフォード氏(以下、BF)が興味深い発言をしている。
 日本、韓国、朝鮮が一つの国に統合するという動きがあるというのだ。
 もともと第二次世界大戦前、三十年間、朝鮮半島と日本列島は大日本帝国という一つの国だった(台湾や南方諸島も含めて)。
 もともと一つの国でを、戦後、米国が三つに分断統治して植民地化し、互いに争わせるようにこの地の国民たちに情報操作してきた。
 歴史的にも極東の半島と列島はほぼ同一民族と言えるが(日本語と韓国語は姉妹言語であることなど)、この地の国民に、長い間、それに気づかせないよう、嘘の教育をしてきたため、現時点では感情的に互いを嫌いあっている。
 だが日朝韓が一つになれば、中国、ロシアと同等の大国が誕生する。だからもう一度、極東アジアは一つになるべきだ。
 BFはそう唱える。

 日本と韓国が米国の植民地であることは、在日または在韓米軍基地から推測がつくが、北朝鮮が米国の植民地と言われてもピンとこない人もいるかもしれない。
 これはBFの過去の動画を見てもらえば理解できる。
 マスコミは北朝鮮は米国の敵国で、米国は日本と同盟国だと喧伝するが、これはプロパガンダに過ぎない。実際は、北朝鮮はCIAの命令で日本向けテポドンを配置しているのだ。
 極東アジアを分断させ、互いに争わせた方が米国としては支配しやすい。一つにまとまって国力を持たれるのが一番困る。
 テポドンの核兵器は米国製またはイスラエル製とのこと。
 常識的にものごとを考えてほしい。北朝鮮のような後進国が独自で核兵器を開発できる技術力がないことは、誰もが合意できるだろう。

 第二次大戦後、ドイツはベルリンの壁で東西に分断された。その後、89年にベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは再び一つの国になった。なぜ一つになったのか。それはもともと一つの国だったからだ。
 
 われわれもまた、過去の記憶を呼び戻すべきだ。極東アジアを外から見たら、一つの民族だ。まずは米国の植民地状態から独立し、もう一度一つになるべきだろう。
 ただし片方がもう片方の政府を征服するのではなく、対等合弁が必要だ。
 共通の言語は英語とし、旧日本領は日本語と英語、旧韓国領、旧朝鮮亮は韓国語と英語というように、地域ごとに標準語を調整してはどうか。
 また明治維新では廃藩置県により、それまで半独立国といっていい藩が解体し、中央集権体制が確立されたが、今度はその逆に、ローカル地域の地方自治権を強化し、国全体としては外交、防衛のみの行政に特化した連邦国家のような体制が望ましいだろう。
 
 つまり半島と列島が統合する最大のメリットは第一にこの地域内での戦争が起こらないことである。軍隊だけ統一し、そのための共通の国家元首を置き、それ以外の行政はすべて地方自治が担当するというのでもいいだろう。


 領土問題というと、マスコミは北方領土、尖閣諸島、竹島ばかりを取り上げ、日朝韓統一問題に触れることはない。
 だがこちらの方がはるかに関心を持つべき領土問題なのだ。