2011年2月7日月曜日

WWEの面白さは浅草演芸場の寄席と同じ

最近、相撲の八百長が問題になっている。
プロスポーツ興業であれば、八百長とまでいかなくても、スター選手を盛り立てる演出ぐらいはどこの団体でもやっている。スポーツ興業自体の人気を高めるためだ。だから八百長が発覚したくらいで春場所を中止するのはいかがなものか。
むしろ暴力団との交際、賭博、麻薬といった問題の方が重大だ。いや、部屋の新弟子が兄弟子たちからリンチを受けて死亡した事件こそ、相撲界最大の汚点のはずだ。
こうした事件にくらべれば、相撲の八百長などたいした問題とは言えない。こう思うのは私が長年のプロレスおたくだからだろうか。
八百長試合に拒絶反応があればプロレスおたく(少なくともWWEおたく)にはなれない。

一昔前、仲間内の飲み会などの席で自分はプロレスおたくだと告白すると白い目で見られることがあった。プロレスはガチンコ勝負でなく、すべて八百長だ。だからプロレスを楽しむこと自体がまちがっている。これがアンチプロレス派の主張だった。
ところが90年代半ばぐらいから様子が変わってきた。ショービジネス路線のプロレスとガチンコ勝負を標榜する総合格闘技に興業団体が二極分化してきたのだ。
そしてショービジネス路線の代表が米国WWE(当時はWWF)だった。つまり、WWEでは観客全員がこれはガチンコ勝負ではないことを納得した上で、入場料を払って観ているのだ。

長い間、WWEは無料試合しか見ていなかったが、ここ数年、PPVで有料試合をしばしば観るようになった。
レッスルマニアを見たとき、(こんな言い方をするのもおこがましいが)WWEのビンス・マクマホン会長という人は“本物のプロレスのなんたるか”がわかっている人だと感じた。同時に、これは浅草演芸場の寄席に似たエンターティメントだと感じた。
プロレスと落語のどこに共通点があるのか。不審に思うかもしれないが、これがレッスルマニアの私の率直な感想である。

浅草演芸場の寄席では、真面目な古典落語しかやりませんと宣伝したら、少数の通の客しか寄席に足を運ばない。ところが古典落語の以外に漫才や手品、紙切りなどの“色物”もやりますと宣伝したら、“色物”目当てに客が入る。
しかしながら、寄席を最初から最後までじっくり楽しむと、一番すばらしかったのはやはり真打の古典落語だと納得して客は帰っていくのである。
古典落語はただ笑えるだけでなく、独特の格調の高さがあり、江戸時代から連綿と続いている理由がここにある。

一方、WWEのプロレスもこれに似ている。因縁の対決といった話題作りやギミックやディーバといった“色物”が多いのもWWEの特徴だが、マクマホンが本当に観客に見せたいのは“色物”ではなく“本物のプロレス”なのである。
では“本物のプロレス”とは何か。ガチンコ勝負でないのに“本物”はあり得るのか。
プロレスではスープレックスで相手を投げる選手も投げられる選手も訓練を積んだプロでなければ怪我をしてしまう。その訓練の成果が“本物のプロレス”なのだ。
レッスルマニアをすべて観終わった後の感想は、ギミックも面白いが一番エキサイトしたのはプロレスそのものだったというのが、多くの観客の意見だろう。

ところでここまでプロレスはすべて八百長というように述べたが、実は部分的にガチンコ勝負も紛れ込んでいるようなのだ。たとえば試合の勝者が最初から決まっている場合でも、途中経過でなんらかのガチンコ勝負をやっている場合もある。
相撲やボクシングは、「これはガチです」と観客に約束しているので、八百長やイカサマの判定勝ちが露呈すると、騒ぎになる。
一方、プロレスは、「これはヤオです」と説明済の上で試合を見せ、その中にひそかにガチが混じっていたりする。そしてどれがガチでどれがヤオなのかは最後まで観客にはわからない。「秘すれば花」ということなのだろう。
私が長年プロレスおたくであり続けているのは、こういうところに魅力を感じているからなのだと思う。

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