ネットが普及してから、大学の権威が急激に落ちてきた、と思っていたところ、大学入試のカンニング事件が話題になっている。受験生が携帯電話か何かで入試問題を撮影し、それをネットの掲示板に送信し、掲示板にアクセスした他人から答えを教えてもらう、というやり方である。まさにクラウド・コンピューティング時代のカンニングといったところか。
私がこのニュースを最初に知ったときの感想は、相撲の八百長事件のニュースを最初に知ったときと同じだった。
つまり、「こんなもの大ニュースでもなんでもなく、もっと小さいベタ記事扱いしていいんじゃないのか」である。
個人的には、昔のように相撲のテレビ中継は見なくなったし、相撲の八百長なんて都知事でなくても、何となく知っていた人はたくさんいたはずだ。だからニュースでもなんでもない。
大学入試問題のネット漏洩も然り。いまさら“大学”などニュースでもないだろう、と思う。
私が大学に通っていたのはバブル時代、80年代後半である。「象牙の塔で銀の笛を吹いている」といったイメージが大学に残っていた最後の時代だったように思う。
学士になれば仙人になれるわけではないが、それでも真の学問や知識は大学に行かなければ学ぶことができない、という思いがあった。
だが知らないことはネットがすべて教えてくれる時代になると状況は一変した。この時代、大学に行かなくては得られない知識とは何だろうか。
日本人の場合、博識になりたければ、まず英語を徹底的に学ぶことだ。日本語のサイトしか見てない人はネットから得られる知識の恩恵を半分も得ていない。ウィキペディアの日本語版と英語版を見比べてみれば、英語の情報量の方が圧倒的に多いことに気づくはずだ。
特に自然科学系、工業技術系の知識を吸収する場合、英語のサイトを読むことはインターネットの威力を最大限に発揮することに等しいと言っても過言ではない。
日本だけではないかもしれないが、日本の大学には二つの役割がある。
一つは純粋な教育機関としての役割である。つまり入学してから卒業するまでの期間に学生の知識や教養、技能などを向上させる役割である。
もう一つは卒業生に“労働者ブランド”を付与する役割である。
学生は大学を卒業後に企業や役所に就職するため、在学中または卒業後、就活する。このとき採用者側に自分の“労働者ブランド”を提示する。
企業の採用者側としては、たとえば「この学生は偏差値の高い大学を卒業しているから(あるいは卒業見込だから)、優秀な人材であることが想定される。よって採用しよう」といった具合に、この“労働者ブランド”が採否を判断する一つの有力な材料になる。と言うより、“労働者ブランド”なしでは採否が判断できない企業も実質的にはあるだろう。
日本の大学の場合、教育機関としての役割は弱い。特に文系がそうだ。学生時代をモラトリアム(執行猶予)と表現するように、日本の学生は大学に入るまでは一生懸命勉強するが入ってからはあまり勉強しない、と言われる。
もとより知識なら大学に行かなくてもネットで十分得られる時代である。
だとしたら、日本の大学の第一義は”ブランド”提供機関ということになる。
厳密に言えば、大学が学生に与えるブランドは“労働者ブランド”だけでなく“配偶者ブランド”もあるかもしれない。いいところへお嫁に行くために、あるいはいいお嫁さんをもらうために、男女とも一流大学を目指す、といった風潮はあるだろう。
だがブランドは所詮、ブランドに過ぎない。労働者も配偶者も長い時間をかけて己の真価を証明するものであり、ブランドごときで真価など正確にわかるはずもない。
いずれにせよ、大学にせよ、相撲にせよ、過去の権威は完全に失墜した。そればかりではない、米国、政治家、官僚、企業、マスメディア、宗教団体、その他もろもろの”権威”が、このネット時代にことごとく崩れかけている。
いまさら虚妄の権威にしがみつくのではなく、ネット時代に対応した新しい”あり方”を模索した方が、21世紀を生き延びるすべを見出せるのではないか。そう考える。
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2011年2月27日日曜日
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大学出てるからって偉いわけでもないし、、、、だからと言って、出てないと(今時出てないと)馬鹿でもあるんじゃないの、、、、高学歴にそのうちなるよ、そうした場合、一般入試出でてると、馬鹿であるし入るの難しい、出るの簡単って言う学校と、入るの楽で出るの難しいって言う学校を選んだ時、最後に笑うのどちらかと言うと、、、、、入るの楽、出るの難しいって言う学校の方が若くして見た時、こっちの方がよくやりましたね。よくぞ頑張った。。。って持て流行れるんじゃないの?でも年齢でしょうね。最終学歴の年齢が就職には、必要だと思う。ばばあやじじいになってでたら、どっちにしても就職には、無理なんじゃないとおもう。これが私の意見です。
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