2011年2月27日日曜日

入試問題漏洩事件について思う

 ネットが普及してから、大学の権威が急激に落ちてきた、と思っていたところ、大学入試のカンニング事件が話題になっている。受験生が携帯電話か何かで入試問題を撮影し、それをネットの掲示板に送信し、掲示板にアクセスした他人から答えを教えてもらう、というやり方である。まさにクラウド・コンピューティング時代のカンニングといったところか。
 私がこのニュースを最初に知ったときの感想は、相撲の八百長事件のニュースを最初に知ったときと同じだった。
つまり、「こんなもの大ニュースでもなんでもなく、もっと小さいベタ記事扱いしていいんじゃないのか」である。
個人的には、昔のように相撲のテレビ中継は見なくなったし、相撲の八百長なんて都知事でなくても、何となく知っていた人はたくさんいたはずだ。だからニュースでもなんでもない。
大学入試問題のネット漏洩も然り。いまさら“大学”などニュースでもないだろう、と思う。
私が大学に通っていたのはバブル時代、80年代後半である。「象牙の塔で銀の笛を吹いている」といったイメージが大学に残っていた最後の時代だったように思う。
学士になれば仙人になれるわけではないが、それでも真の学問や知識は大学に行かなければ学ぶことができない、という思いがあった。
だが知らないことはネットがすべて教えてくれる時代になると状況は一変した。この時代、大学に行かなくては得られない知識とは何だろうか。
日本人の場合、博識になりたければ、まず英語を徹底的に学ぶことだ。日本語のサイトしか見てない人はネットから得られる知識の恩恵を半分も得ていない。ウィキペディアの日本語版と英語版を見比べてみれば、英語の情報量の方が圧倒的に多いことに気づくはずだ。
特に自然科学系、工業技術系の知識を吸収する場合、英語のサイトを読むことはインターネットの威力を最大限に発揮することに等しいと言っても過言ではない。

 日本だけではないかもしれないが、日本の大学には二つの役割がある。
一つは純粋な教育機関としての役割である。つまり入学してから卒業するまでの期間に学生の知識や教養、技能などを向上させる役割である。
もう一つは卒業生に“労働者ブランド”を付与する役割である。
学生は大学を卒業後に企業や役所に就職するため、在学中または卒業後、就活する。このとき採用者側に自分の“労働者ブランド”を提示する。
企業の採用者側としては、たとえば「この学生は偏差値の高い大学を卒業しているから(あるいは卒業見込だから)、優秀な人材であることが想定される。よって採用しよう」といった具合に、この“労働者ブランド”が採否を判断する一つの有力な材料になる。と言うより、“労働者ブランド”なしでは採否が判断できない企業も実質的にはあるだろう。
日本の大学の場合、教育機関としての役割は弱い。特に文系がそうだ。学生時代をモラトリアム(執行猶予)と表現するように、日本の学生は大学に入るまでは一生懸命勉強するが入ってからはあまり勉強しない、と言われる。
もとより知識なら大学に行かなくてもネットで十分得られる時代である。
だとしたら、日本の大学の第一義は”ブランド”提供機関ということになる。
厳密に言えば、大学が学生に与えるブランドは“労働者ブランド”だけでなく“配偶者ブランド”もあるかもしれない。いいところへお嫁に行くために、あるいはいいお嫁さんをもらうために、男女とも一流大学を目指す、といった風潮はあるだろう。
だがブランドは所詮、ブランドに過ぎない。労働者も配偶者も長い時間をかけて己の真価を証明するものであり、ブランドごときで真価など正確にわかるはずもない。

いずれにせよ、大学にせよ、相撲にせよ、過去の権威は完全に失墜した。そればかりではない、米国、政治家、官僚、企業、マスメディア、宗教団体、その他もろもろの”権威”が、このネット時代にことごとく崩れかけている。
いまさら虚妄の権威にしがみつくのではなく、ネット時代に対応した新しい”あり方”を模索した方が、21世紀を生き延びるすべを見出せるのではないか。そう考える。


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2011年2月20日日曜日

既存メディアの「小沢叩き」VSネットの「『小沢叩き』叩き」

最近、地上波TVと阿修羅掲示板を交互に見比べるということをやっているが、両者が正反対の情報を流しているのが興味深い。
地上波や大新聞では、小沢一郎氏は絶対的”悪玉”にされている。一方、阿修羅掲示板などいくつかのネットメディアでは「小沢叩き」をやっている検察と菅内閣、それに大手メディアを徹底的に非難している。
どうちらが正しいか。ともに媒体の編集方針に則ったプロパガンダだから、客観的な報道ではないと言ってしまえばそれまでだが、私は阿修羅掲示板に軍配を上げたい。
阿修羅の方が読んでいて説得力がある。と言うか地上波がやっている「小沢叩き」は私のような典型的なB層でもあからさまな情報操作とわかるほど、報道のやり方が稚拙なのだ。
「小沢叩き」と「『小沢叩き』叩き」の論争はともかく、今回の対決は、既存権威メディアの信頼失墜という意味の方が大きいと思う。
地上波のテレビや大新聞が報道したニュースは、絶対に信用できる。これが、これまでの国民の大多数の認識だったはずだ。だが、ここにきてそれが崩れてきた。
私はかねてから、 ソニーが米国で開発したgoogle TVのようなものが普及した段階で、メディアの主流は完全にテレビからネットへ移行すると思っていた。だが、既存メディアのジャーナリストが、自らの失策で、それより早い自己崩壊を招いているようだ。


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2011年2月14日月曜日

ARM陰謀論 その2

  そもそもエイコーン・コンピュータがVLSIテクノロジーにASICマイコンの開発を依頼したのがすべての始まりだった。
このとき誕生したのが初代ARMマイコンだが、これがあまりにいい出来栄えだった。そこで、このマイコンだけで今後商売していけそうだと踏んだので、両社から技術者を出し合って、ARM社が設立される運びとなった。
初代社長にはモトローラの営業部長、ロビン・サクスビーをヘッドハンティングしたが、これはアップルつながりだろう。当時、マッキントシュのCPUはモトローラの68系やPowerPCを使っていた。
ちなみにこの前後、アップルは「ニュートン」というPDAをラインアップしていたが、誰も知らないだろう。iPod、iPod touch、iPhone、iPadで一世を風靡したアップルだが、昔はハズすこともあったのだ。やはりジョブズがいないとアップルはだめなのか。
いずれにせよ、アップルがARMの株を引き受けたのは「ニュートン」の次世代CPUを開発したいという思惑があったからだと思われる。

閑話休題、この当時、ARM社はマスコミに対し、売上を公表しなかたっが、あまり収益がなかったのだろう。おそらく当時はライセンス契約料が安かったのではないか。だがそれが当初の目論見通りだったのだ。ARM社の使命はARMのアーキテクチャを普及させることで、収益を上げることではなかった。そしてアーキテクチャが普及すれば、それ用のASICマイコンを外注で開発する需要が増える。そうしたら自分たちの出番になる。ASIC専業メーカーのVLSIテクノロジーはそう考えたのではないか。
だがその後、携帯電話市場の増大とともにARM社は大企業へ成長した。一方、VLSIテクノロジーはNXPに買収されて消滅してしまった。おそらく携帯電話メーカーの大多数は自前でASICマイコンぐらい開発できるので、あえてVLSIテクノロジーに発注しなかったのだろう。

ところでARM社創業当時、VLSIテクノロジーはあえて三番手の株主を選び、自分とARMの関係を目立たなくさせていた。これはなぜだろうか?
おそらく自分たちが携帯電話市場のCPUのシェアを狙っていることがあからさまになると、Windows PCでCPU市場を席巻したインテルと衝突する。これを恐れたのではないか。
当時、インテルは86互換でライバルのAMD社に対し、ライセンス問題で何度も訴訟を起こしていた。裁判では軒並みAMDが敗訴し、ライセンス料をインテルに支払っていた。
そもそもインテルとAMDとVLSIテクノロジーには共通項がある。もともとファアチャイルド(現存するファアチャイルドとは別会社)という半導体メーカーがあり、この会社が解散したとき、社員が三つのグループに分かれて新たに起業した。それがインテル、AMD、VLSIテクノロジーだった。
兄貴分のインテルとAMDが裁判沙汰で火花を散らしているときに、VLSIテクノロジーが自社ブランドでARMを市場に投入したらどうなるか。X86とARMはアーキテクチャが異なるので、まさかライセンス問題で訴えられることはないだろうが、それにしても業界最大手、インテルに睨まれるのはこわい。そこでベンチャー企業、ARM社という隠れ蓑を作り、携帯電話向けCPUのデファクトスタンダードを密かに狙っていたのではないか。以上が私の推理である。

それにしても、PCを制覇したX86と携帯電話を制覇したARMを設計したのが、もともとフェアチャイルドにいた同門のエンジニアというのはすごい。彼らから見れば、「”本物”のCPUを設計・開発できるのは世界で俺たちだけ」という自負があるのだろう。フリースケールのPowerPCもルネサスのSHマイコンも彼らに言わせれば、”お子様ランチ”なのかもしれない(おわり)。

ARM陰謀論 その1

RISCの次はARM陰謀論である。
前回のRISC陰謀論は当ブログ最長エッセーであり、自分では渾身の力作と思っていたが、アクセス数は過去最低。誰も読んでいないのだ。確かにRISCチップの定義がどうであろうと日常生活に影響ない人が世の中の99.9999・・・%以上だろう。いや、業界の人間にとっても、つまりマイコンを売る人や買う人にとっても同じだろう。RISCがただ「よいマイコン」しか意味しないとしても、別に日常業務に変化はない。だから誰も私のブログを読まないのだ。
それはともかく、前から文章にして自分でも確認したいテーマとしてRISC陰謀論があったわけであり、誰かに読んでもらうためというより、自分が書くために書いたエッセーとしてやはり書く価値があったのだ、と弁解しておこう。
そこでもう一つ、ARMにまつわる陰謀話。これもまた読むためでなく、書くためのエッセーだ。

*********
ARMのアーキテクチャを設計したのは、ARM社ではなくVLSIテクノロジー社の技術者だ、という事実は現在ではもはや企業機密でもなんでもないらしい。と言うか、2年前くらいの「トラ技」の広告にそんなようなことが書いてあった。
確かNXP社の広告だ。
「欧州の大手半導体メーカーである当社NXP(旧Philips Semiconductor)は、日本では知名度が低いせいか、当社製品をあまり買ってもらえない。だがARMマイコンでは実は当社のマイコンが世界で一番正統と言える。
実はARMを設計したVLSIテクノロジーは、現在、当社に吸収合併されている。だから当社のマイコンこそARMの本家本元である。
日本のボードメーカー、システムメーカーのみなさん、どうせARMを買うなら、本家の当社からお買い求められたし・・・・・・」と言うような趣旨の広告だった。

しかしながら、昔は”スパイごっこ”めいていた。
そもそも、90年代中盤、日本ではなぜがARM関連のプレスリリースをVLSIテクノロジーの日本法人広報部が業界マスコミに発表していた。ARM社の日本法人設立後も、しばらくそれが続いていた。
VLSIテクノロジーは当時、アップル・コンピュータ、エイコーン・コンピュータ(英)に次いでARM社の三番目の株主だった。
親会社の広報部が子会社に代わって広報発表するというのは理屈が通る。だから筆頭株主のアップル・コンピュータが広報発表するというのならわかる。
当時、アップルは創業者スティーブ・ジョブズを放出していた時期で、iPodもiPhoneもまだなかったが、日本法人はあり、マッキントッシュを販売していた。
一方、エイコーン・コンピュータは日本法人もなければ、日本市場に製品もほとんど販売していない。だからここが広報発表をするのは無理である。
だがアップルを差し置いて三番手株主のVLSIテクノロジーが、ARM社の”宗主国”のような顔をして、でしゃばってくるのはどういうわけか(つづく)。

2011年2月10日木曜日

RISC陰謀論 その3

21世紀に入るとRISCにまつわるもう一つの不文律が崩壊した。
これまでRISCは32ビット、64ビットといったハイエンドマイコンの世界の用語で、8ビット、16ビットのローエンドマイコンの世界では使わないという常識があった。
ところがマイクロチップのPICマイクロとそのライバルであるアトメルのAVRシリーズは、8ビット、16ビットにも関わらず、RISCと称されて販売されている。いずれも8ビット、16ビットではここ10数年で急速にシェアを伸ばしたマイコンだ。
ちなみにウィキペディアを見るとPICマイクロとAVRシリーズはRISCライクなマイコンではあるとした上で、正式なRISCとは認めていないような記述になっている。

こうなるともはやRISCは「よいマイコン」以上の意味はない。
RISCと名がつけば売れる。逆にRISCと謳わなければ売れない。だから猫も杓子もマイコンメーカー各社は自社製品をRISCと称して宣伝し、販売しているのである。
RISCを超える新しい技術と用語が登場し、もはやRISCがマイコンのほめ言葉でなくなったときこそ、RISCという語の本当の技術的定義が確立されるのだと思う。
だがそのときまで、RISCの意味は単なる「よいマイコン」でしかない(おわり)。

RISC陰謀論 その2

 前述のようにRISCのもともとの定義は命令数を減らすことで処理スピードを上げるマイコンということだったが、ワークステーション・ベンダーたちの64ビットRISCは、確かにCISCのX86よりは命令数が少ないかもしれないが、バージョンアップする度に必然的に命令数が増えていく。だから命令数が少ないことだけをRISCの定義とするには限界が出てきた。
そこで生まれた新しいRISCの定義が制御部にハードワイヤード方式を採用したマイコンというものだった。ワークステーション・ベンダーたちの64ビットRISCは制御部の結線がハードウェア的に固定している。これがハードワイヤード方式だ。一方、X86の場合、制御部はマイクロプログラム方式と呼ばれ、流動的なソフトウェアになっている。
これはASICとFPGAの関係に似ている。ハードワイヤード方式の方が制御部の処理スピードは速く、消費電力も少ない。一方、マイクロプログラム方式の方が拡張性に優れ、機能を追加しやすく、バージョンアップを容易に行えるというメリットがある。
RISCとはハードワイヤード方式のマイコンを指し、RISCの処理スピードの速さと低消費電力はハードワイヤード方式によるもの、という解釈で一応落ち着いたかに見えた。

ところがここで現れたのが英国のARMである。現在ではARMは正式名称で何かの略称ではないが、創業当時はAdvanced RISC Machinesの略称ということになっていた。つまり社名および製品名にRISCを謳っているのである。ところがARMチップはマイクロプログラム方式のマイコンだった。
ARMが社員10数名程度のベンチャー企業だった当時、業界マスコミはARMがRISCの定義を理解してないのだと嘲笑していたが、嘲笑している間にARMが大ブレークした。
90年代終わりから携帯電話市場が急成長し、携帯電話のCPUの7割にARMアーキテクチャアが採用され、世界で一番普及したRISCがARMチップということになってしまった。こうなるとARMが間違っているのではなく、RISCの定義自体を変える必要が出てきた。
すなわち「ハードワイヤード方式でなく、マイクロプログラム方式のRISCもあり」ということになった。
ちなみにかつてX86のライバルだったモトローラ(現フリースケール)のPowerPCもマイクロプログラム方式のRISCチップだ。

ところでX86がCISCであってRISCでない以上、86互換チップも必然的にCISCであってRISCでないことになる。こういう不文律があった。しかしながらARMがRISCの定義を変えている間、平行して86互換の世界でもRISCという語が再定義されていた。
彗星のように現れたベンチャー企業、ネクスジェンが86互換RISCチップの新製品を発表し、業界マスコミを席巻した。と思ったらそれから間もなくネクスジェンはAMDに買収されて消滅した。
もともとネクスジェンは自社製品を売るのではなく会社自体を売るために起業した会社だったようだ。米国のベンチャー企業にはよくある話である。
ネクスジェン買収後、AMDはRISCであることを謳った86互換チップを精力的に開発している。
こうして86互換はRISCと呼んではいけないという不文律は崩壊した(続く)。

RISC陰謀論 その1

 最近、リチャード・コシミズの動画とブログにはまっているせいか、物事を陰謀論の視点から見るくせがついた。
 そこでエレクトロニクスB層を覚醒させるべく、RISC陰謀論について論じてみたい。

 この前、放送大学のビデオ講義で、教授がRISCについて教科書的な説明をしていた。
 RISC(Reduced Instruction Set Computer)とは、アセンブリ言語でプログラミングするとき、処理スピードを上げるために命令数を少なくしたマイコンを指す。RISCに対してそれ以前からあった旧タイプのマイコンをCISC(Complex Instruction Set Computer)と呼んで区別する。これがRISCの教科書的説明だ。
 私は素人の立場ながら20年近く、このRISCという語について探究してきた。だから教科書には書かれないRISCにまつわる真相について、私は自信を持って語ることができる。
 結論から言えばこうだ。RISCは現在では「よいマイコン」というぐらいの意味しか持たない。技術の専門用語に見えるが諸事情からRISCの意味は崩壊してしまった。
 たとえば、もしあなたが半導体メーカーを起業して、ともかくマイコンと名のつく製品をRISCチップと称して販売したところで、「これはRISCじゃないだろう」と突っ込む客はまずいない。
 一方、たとえばあなたが汎用マイコンをDSPと称して販売したら、ボードメーカー、システムメーカーの客から「これはMAC命令がないからDSPじゃない。金返せ」といったクレームがくる。DSP(Digital Signal Processor)は技術的定義が確立した用語だからだ。
 そもそもこのRISCという語が注目されはじめた80年代、実はRISCという用語は米国マイコン業界の陰謀と深い関係があったのだ。

 80年代、32ビットマイコンでは総合評価でインテルの「8086」が1番、モトローラの「6800」が2番だった。
 ここで言う総合評価というのは、マイコンの処理スピード、つまりベンチマークテストの性能だけでなく、価格や消費電力、さらには開発ツールなどの各種ユーティリティーソフトやそのコストまで含めた商品の市場での競争力を指す。
 だがインテルの競合他社としては、客に「8086」が1番である事実に気づかれてしまっては商売上がったりになる。そこでRISCという用語を持ち出した。
 具体的にはIBM、サン・マイクロシステムズ、ヒューレット・パッカード、DEC、シリコン・グラフィックスといった当時のワークステーション・ベンダーが、インテルの競合他社だった。彼らは自社ワークステーションのCPUに独自のマイコンを64ビットRISCと称して開発していた。
 彼らはの主張はこうだった。自分たちのCPUは新技術のRISCを使っている。だから従来技術であるCISCの「8086」やその後継(X86)よりも、自分たちのマイコンが優れているはずだ。
 吉野家の牛丼は「早い、安い、うまい」が謳い文句だが、この頃、RISCのキャッチフレーズは「(処理スピードが)速い、安い、低消費電力」だった。
 しかしながら、X86は現在でも生き残っているのに対し、ワークステーション・ベンダーのRISCは今日ほとんど淘汰されてしまっている。DECなどは会社自体が今では存在していない。市場に受け入れられたのはX86の方だった。

 ところで、当時、ワークステーション・ベンダーたちがRISCと称して開発していたマイコンの共通項を探り出して、業界マスコミがRISCという語を再定義することになる(続く)。

2011年2月7日月曜日

WWEの面白さは浅草演芸場の寄席と同じ

最近、相撲の八百長が問題になっている。
プロスポーツ興業であれば、八百長とまでいかなくても、スター選手を盛り立てる演出ぐらいはどこの団体でもやっている。スポーツ興業自体の人気を高めるためだ。だから八百長が発覚したくらいで春場所を中止するのはいかがなものか。
むしろ暴力団との交際、賭博、麻薬といった問題の方が重大だ。いや、部屋の新弟子が兄弟子たちからリンチを受けて死亡した事件こそ、相撲界最大の汚点のはずだ。
こうした事件にくらべれば、相撲の八百長などたいした問題とは言えない。こう思うのは私が長年のプロレスおたくだからだろうか。
八百長試合に拒絶反応があればプロレスおたく(少なくともWWEおたく)にはなれない。

一昔前、仲間内の飲み会などの席で自分はプロレスおたくだと告白すると白い目で見られることがあった。プロレスはガチンコ勝負でなく、すべて八百長だ。だからプロレスを楽しむこと自体がまちがっている。これがアンチプロレス派の主張だった。
ところが90年代半ばぐらいから様子が変わってきた。ショービジネス路線のプロレスとガチンコ勝負を標榜する総合格闘技に興業団体が二極分化してきたのだ。
そしてショービジネス路線の代表が米国WWE(当時はWWF)だった。つまり、WWEでは観客全員がこれはガチンコ勝負ではないことを納得した上で、入場料を払って観ているのだ。

長い間、WWEは無料試合しか見ていなかったが、ここ数年、PPVで有料試合をしばしば観るようになった。
レッスルマニアを見たとき、(こんな言い方をするのもおこがましいが)WWEのビンス・マクマホン会長という人は“本物のプロレスのなんたるか”がわかっている人だと感じた。同時に、これは浅草演芸場の寄席に似たエンターティメントだと感じた。
プロレスと落語のどこに共通点があるのか。不審に思うかもしれないが、これがレッスルマニアの私の率直な感想である。

浅草演芸場の寄席では、真面目な古典落語しかやりませんと宣伝したら、少数の通の客しか寄席に足を運ばない。ところが古典落語の以外に漫才や手品、紙切りなどの“色物”もやりますと宣伝したら、“色物”目当てに客が入る。
しかしながら、寄席を最初から最後までじっくり楽しむと、一番すばらしかったのはやはり真打の古典落語だと納得して客は帰っていくのである。
古典落語はただ笑えるだけでなく、独特の格調の高さがあり、江戸時代から連綿と続いている理由がここにある。

一方、WWEのプロレスもこれに似ている。因縁の対決といった話題作りやギミックやディーバといった“色物”が多いのもWWEの特徴だが、マクマホンが本当に観客に見せたいのは“色物”ではなく“本物のプロレス”なのである。
では“本物のプロレス”とは何か。ガチンコ勝負でないのに“本物”はあり得るのか。
プロレスではスープレックスで相手を投げる選手も投げられる選手も訓練を積んだプロでなければ怪我をしてしまう。その訓練の成果が“本物のプロレス”なのだ。
レッスルマニアをすべて観終わった後の感想は、ギミックも面白いが一番エキサイトしたのはプロレスそのものだったというのが、多くの観客の意見だろう。

ところでここまでプロレスはすべて八百長というように述べたが、実は部分的にガチンコ勝負も紛れ込んでいるようなのだ。たとえば試合の勝者が最初から決まっている場合でも、途中経過でなんらかのガチンコ勝負をやっている場合もある。
相撲やボクシングは、「これはガチです」と観客に約束しているので、八百長やイカサマの判定勝ちが露呈すると、騒ぎになる。
一方、プロレスは、「これはヤオです」と説明済の上で試合を見せ、その中にひそかにガチが混じっていたりする。そしてどれがガチでどれがヤオなのかは最後まで観客にはわからない。「秘すれば花」ということなのだろう。
私が長年プロレスおたくであり続けているのは、こういうところに魅力を感じているからなのだと思う。