2018年4月5日木曜日

プロ文芸評論家不要論

 ネットサーフィンすると、評論家不要論が目立ちます。
 ネットで普通の人が不特定多数の大衆に自由に発言できるようになった今日、あえて専門家の意見だけを特別扱して拝聴する必要があるのか。こういう意見がネット上に散見します。
 もちろんこれとは真逆の意見、すなわち、無知な一般大衆が評論家気取りで素人意見を述べるのは言語道断だ、といった主張もあります。ただこうした評論家擁護論はネット上では少数派のようです。

 政治評論家、音楽評論家、映画評論家、ラノベ評論家はそれぞれ不要といった不要論を私はこれまでネット上に見つけました。
 しかしながら、文芸評論家に関しては唯一、擁護する意見の方が根強いようです。同じ小説でもラノベは評論家不要で、一般小説だけ評論家が必要なのでしょうか。


1.アマゾンの消費者行動にみる文芸評論家の立ち位置

 アマゾンなどネットで書籍を購入する場合、すでにその本を読んだ人の書評を読むことができます。私たちがその本を購入するかどうかを決めるのに、こうした書評が参考になることがあります。
 ところでアマゾンの書評を書いているのは誰でしょうか。一般にプロの評論家でなく、私たちと同じアマチュアの読者と言っていいでしょう。
 同じ書籍でも特に小説の場合、一般消費者目線の感想の方が、専門家の見解より自分にはしっくりくる。そう思う人が多数派なのではないでしょうか。
 プロの文芸評論家は普通の人より、様々な文芸作品を多読し、難解な哲学書や原書を理解し、海外留学など高い学歴を持っているかもしれないが、彼らと同じくらい見識を積まなければ彼らの境地に至るのは不可能だろうし、むしろ自分と等身大の人が面白いと思う小説が、単純に、自分が読んでも面白いのではないか。
 アマゾンで小説を買う際、一般消費者がこうした考えで消費行動を起こしているとしたら、やはりプロ文芸評論家は不要ということになります。


2.文壇内の文芸評論家不要論

 ネットで発見したのですが、保坂和志、高橋源一郎の両氏が文芸雑誌で文芸評論家不要論を唱えたとのこと。自分で小説を書いてない評論家は、小説を評論する資格がない、というようなことを述べたようです。
 両氏とも小説家兼評論家ですので、自分たちは評論する資格があるという意味なのでしょうか。
 いずれにせよ、文壇内からこうした意見が出てくるのは興味深いと思います。
 これに対し、既存の文芸評論家から反論もあったようです。
 また例によって、この業界特有の”言葉遊び”的なわけのわからない議論の応酬が、相も変わらず両者の間でなされたのではないかと想像します。
 
 私自身は文壇において文芸評論家が不要なのかどうかわかりません。ただし、文芸評論家に対して昔から物申したいことが一つあります。


2.よい文章のドグマは三種類?

 ところでよい文章とは何でしょうか。実は業界ごとによい文章、悪い文章の基準が異なるように思えます。私が知るかぎり以下の三種類の文章ドグマがあるように思えるのです。

①文学・哲学の文章ドグマ
 頭がいい筆者ほど語彙力が豊富なので難しい文章が書ける。難しい文章を読んで意味がわからない読者は頭が悪い。言葉は数学の記号と違い、抽象的で曖昧な概念を持つが、この言葉の性質を極力生かして文章を書くべき。
 
②法律・省令・公文書の文章ドグマ
 よい文章とは決められた表記と表現を用い、言葉の持つ曖昧さを極力排除した論理的かつ客観的文章を指す。したがって読者が正しく文章を理解すれば、数学の問題を正しく理解するのと同様、ほぼ完全に一致した内容を取得できる。ただしこれらの文章は、世間一般の平均的知能の持ち主には理解できない難解さがある。

③ビジネス・世間一般の文章ドグマ
 わかりやすい文章ほどよい文章。わかりにくい文章は悪い文章。頭のいい筆者ほど難しい概念をわかりやすく簡潔に表現できる。逆にわかりにくい文章しか書けない筆者は頭が悪い。

 どのドグマが正しいか、一概には言えません。
 文芸評論家は①のドグマを信奉して文章を書きます。小説でも詩歌でも言葉の持つ曖昧さを武器に芸術作品を作るわけですから、創作の文章を書く際、①でなければ成立しないジャンルですが、評論までこれと同じでなければならないのでしょうか。
 彼らはなぜ②または③のドグマで文章を書かないのでしょうか。

 80年代末のことですが、小林秀雄が亡くなったとき、朝日新聞の書評で、小林秀雄の評論はこれからも作品として価値を持つといったことが書かれていました。 
 評論が作品? 何かトートロジーのような気がします。
 ここからは私の解釈ですが、これは小林秀雄の文章が難解であることを短所でなく、長所として捉えた追悼文だったのではないかと思います。

 世の中にはスタニスワム・レムの『完全な真空』や筒井康隆の『文学部唯野教授』といった作品があります。評論のスタイルをとった小説です。
 もし作品としての価値を持たせたいなら、評論ではなくこうした作品を書くべきではないでしょうか。
 思想書や哲学書はともかく、純粋な評論はあくまで小説という対象に対して書かれるべきものだからです。
 こうした理由から、私は②または③、特に③のわかりやすい文章で書かれた文芸評論がもっと世に出てきてほしい、と考えています。


3.文芸評論もアマチュアリズムで

 私の結論としては、プロの文芸評論家はもっとわかりやすい文章で書いてほしいと思いますし、文芸評論の書籍が一般に売れないのは、何が書いてあるかわからないからだと思います。
 その一方で、アマチュアの評論は何を書いても自由です。
 ただし読者の方では、これはあくまで素人意見で、まちがっているかもしれないと疑いながらアマゾンの書評を読む必要があるでしょう。