2017年4月19日水曜日

中上健次 文芸七番勝負

 早いもので没後四半世紀。昭和最後の文豪、中上健次について書いてみようと思う。
 ところで中上健次はどんな人物だったのか。私は個人的に、落語家、立川談志師匠の作家バージョンのような人物だったと理解している。つまり「芸は最高だが人間としては最低」の付き合いづらい人物である。
 業界では神と仰ぐ信者がいる一方、アンチも根強い。これは談志師匠も中上にも言えることだ。
 以下、中上健次について、文学論とその人物評も交えながら、言いたい放題のコメントを書く。


第一番勝負 中上健次 vs 柄谷行人/文壇の暴言ロード・ウォーリアーズ

 「なろう」では友人同士がグルになって互いに高得点をつけ合う行為を反則だ、という意見がある。だが80年代、同じような”反則”を実際の文壇でやっていた作家たちがいた。中上健次と柄谷行人の二人組だ。
 彼らはよく文芸雑誌で対談し、小林秀雄や村上龍を批判するなど、自分たちの競合作家の徹底的なネガティブキャンペーンを行った。ネガティブキャンペーンの目的は、おそらく自分たちの作品を売り込むためだろう。
 もちろん言論の自由であり、誰の作品を批判してもかまわないが、彼らの対談は、2ちゃんねるの誹謗中傷を少しだけ知的でお上品にしたレベルで、文芸評論のまともな批判とはいいがたい。彼らはただ貶める対象の作家をつまらないと連呼しているだけで、その理由をきちんと説明していない(感想、反論お待ちしています)。
 当時、日米のプロレス界ではロード・ウォーリアーズという無敵のタッグチームが人気を独占していたが、二人はまさに文壇のロード・ウォーリアーズよろしく、強くて悪くてひどいやつらだったのだ。

 それにしろ、二人はどんな関係なのか。ネットで調べたところ、嘘か本当か、中上と柄谷はもともとキャッチボール仲間だったという。キャッチボールだけで文壇ジャックを共謀する友情が生まれるものなのかわからないが、お互いにいいタッグパートナーを見つけたものである。
 中上健次と柄谷行人――それは最強にして最凶の文芸タッグチームだ。


第二番勝負 中上健次 vs 大江健三郎/実力No.1はどちら?

 かつて柄谷行人は、大江健三郎の小説(『同時代ゲーム』あたり?)を文化人類学者の論文と評し、中上健次の作品を文化人類学者の研究対象そのものとし、例によって中上の小説の方が面白いと評論した(らしい)。柄谷の中上評はステマのようなもので真に受ける必要はないが、それにせよ、「文化人類学の研究対象そのもの」という表現は、中上を未開部落の”土人”か”類人猿”扱いしているようで、言いえて妙だ。
 ところで私は現代日本作家で一人称小説の最高の作家が大江健三郎、三人称小説の最高の作家が中上健次だと理解している。一人称小説は「文化人類学者の論文」的だろうし、三人称小説は「文化人類学の研究対象そのもの」だろう。
 大江と中上、どちらがすごいのか、甲乙つけがたい。

 中上はフォークナーの影響を受け、田舎が舞台の土着の小説を書いた、というのが一般的な中上評のようだ。だか私はフォークナーを読んだことがないので真偽はわからない。また紀州の田舎や被差別部落を描くことが中上文学の長所とも思っていない。
 すべての中上の小説が紀州を舞台にしているわけではない。たとえば『賛歌』という作品がある。新宿を舞台に性風俗で働く男が主人公だ。都市を舞台にしても重厚な中上文学ワールドは成立する。
 これは私の個人的見解だが、中上文学の真の魅力は、もっと単純に三人称小説の方法論がすぐれているということにつきる。わかりやすく言えば、描写をさぼらず、まじめに小説という散文を書いているということだ。描写をさぼらないとはどういうことか。それは一場面一場面を長く書くことであり、登場人物の動作をそれこそ一挙手一投足まで細かく描くといことだ。
 また中上の文体は他の優れた作家同様、個性的で独特の”味”がある。

 中上は文章で勝負する作家だが、キャラクターでは勝負しない。緻密な人物描写は怠らないが、個人的に魅力あるキャラクターがいないのだ。
 「岬」、「枯木灘」、「地の果て 至上の時」はシリーズもので、主人公、竹原秋幸は若き土方の親方だ。
 また「千年の愉楽」、「奇蹟」もシリーズものだ。主人公、オリュウノオバはお産婆さんで、肝っ玉母さん的なキャラクターだ。
 私個人的にはどちらのキャラクターにも魅力は感じない。
 ところでオリュウノオバシリーズの方は純文学というより、幻想小説、もっと言えばモダンホラー的な作品だ。人面犬が登場する「熊野集」もモダンホラーといってよい。
 モダンホラーは圧倒的な文章力を作家に要求する。この意味でも中上はキャラクターでなく、文章で勝負する作家と言えるだろう。
 
 さて、さんざんけなした前述の柄谷の中上評だが、これには続きがある。柄谷曰く、今後、新しい文学は中上の何かをパクらなければ生まれない、といようなことを述べていた。これを自分流に解釈すれば、三人称小説は中上文学のように、描写をさぼらずに書きなさい、ということだ。
 被差別部落の”路地”でなく都会を舞台にしてもいいし、上流階級や都市生活者を主人公に小説を書いても中上文学の長所は踏襲できる。ただし文体は小説全体の雰囲気にマッチングするよう、感性を働かせることが肝要だ。そうでないと中上文学のよさはパクれない。


第三番勝負 中上健次 vs 村上春樹/実力No.1はどちら?

 作家は評論家のための作家と読者のための作家に二分されると言われる。中上は典型的な前者だ。一方、後者の代表は、80年代では赤川次郎、純文学系に限定すれば村上春樹だろう。
 村上春樹は今でこそ万年ノーベル賞候補作家だが、鼠三部作時代はあまり評論家からほめられなかった。だが本は売れている。それで業界としても春樹を評価せざるを得なくなり、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で谷崎潤一郎賞を与えた。
 『ノルウェイの森』発売当時、中上は雑誌のインタヴューで「春樹が大衆に媚びている点を批判したい」といったような、例によって辛口コメントを発したのを覚えている。
 世代的に考えれば、春樹のライバルは中上でなく、村上龍あたりか。ところで春樹は一人称小説家、龍は三人称小説家と私は個人的に理解している。同じ三人称小説つながりでは中上のライバルは龍、一人称小説つながりでは春樹のライバルは大江ということになる。
 春樹は大江にくらべ、さまざまな表現が可能な一人称小説の方法論的な「おいしいところ」がわかってないのでは、と思っていたが、最新作『騎士団長殺し』では、方法論で春樹はついに”大江越え”を果たした、というのが私の感想だ。


第四番勝負 中上健次 vs 古井由吉/中上に勝てる唯一のB級文豪
 
 ところで古井由吉という作家をご存じだろうか。こう書いておいて実は私自身、古井のことはよく知らない。ただ文学通を自認する知人たちがよく褒める作家だ。B級文豪といったところか。
 私は短編集を1冊しか読んだことがない。近所の家からてんぷらの臭いがするので迷惑だ、といった他愛ない私小説で、個人的にはつまらなかったが、その一方で、この作家に最高評価点をつける人が業界にはいるのではないか、という感想を持った。
 芥川賞は新人作家向けの賞で1回受賞したら二度と受賞できない決まりだが、何回でも受賞できるルールにしたら、毎年受賞しかねないのがこの古井由吉だ。おそらく芥川賞通算受賞回数の最多記録を更新するのではないか。中上もまた複数回受賞しそうな作家だが、古井の通算記録には及ばないだろう。
 芥川賞の通常の採点基準で作品を評価した場合、純文学の私小説の理想像に古井の小説は完璧に合致しているのだ。
 だが古井の小説がおもしろいかつまらないかと聞かれたら、私はつまらないと答える。
 もし本屋で中上と古井のどちらかの本を買わなければいけないと言われたら私は中上を選ぶ。統計をとってもおそらく一般読者は中上の方を選ぶのでなないか。そして中上より春樹を選び、春樹よりラノベを選ぶのが、一般読者の行動様式だ。
 おそらく古井文学がわかる人は真の文学通、そうでない人は文学音痴なのだろう。そしてこの基準が正しければ私個人は文学音痴に分類される。


第五番勝負 中上健次 vs 井上光晴/別の意味で中上に勝った全身小説家

 古井由吉は短編集を1冊読んだが、作品を一つも読んだことがないのが全身小説家、井上光晴だ。
 ところで中上は、多くの作家や評論家、編集者が集まる文壇バーでは”不良番長”になる。
 若手はもとより、ときには先輩作家にもからむ。勉強熱心な中上は周囲にいる作家の作品を片っ端から読んでいて、「おまえのあの小説はつまらない」とからんでくる。まさに”文学的不良”だ。
 これに対し、酒が入ると井上はただの”不良”になる。若い美人女流作家を見つけるとセクハラしてくる。はしゃぎぶりも、態度のでかさも、中上より井上の方がやや上だ。
 だがこの全身小説家、しらふのときは知的で理性的なB級文豪なのかもしれない。
 奇しくもこの二人の文壇の”不良番長”は同じ1992年に亡くなっている。


第六番勝負 中上健次 vs 島田雅彦/業界お墨付きの”打倒中上”エース作家

 一人の作家が文壇に登場すると、別の一人の作家が文壇から消える。これは某ベテラン編集者の弁である。
 彼によれば、島田雅彦が台頭してくると中上健次が零落していくという。文壇はイデオロギー対決の場で、両者は思想が真逆だから、片方がもう片方を食う結果になる......。
 ”重厚長大”な中上文学と”軽薄短小”な島田文学。確かに真逆にも思えるが、島田の台頭以前に出版不況で、現在では島田もろとも文学界全体が沈下していったのではないだろうか。

 私個人の解釈では浅田彰の小説家バージョンが島田雅彦。島田雅彦の思想家バージョンが浅田彰と理解している。
 浅田彰の思想であるスキゾキッズとは、私の解釈では、昨日はキリスト教を信じ、今日は仏教を信じ、明日は共産主義を信じる......といったミーハー思想だ。虚無主義や無思想ともまた違う。
 哲学など何も知らないミーハーな大衆にくらべ、哲学を一通り”お勉強”した上で、AKB48の握手会に参加するなど、ミーハーと同じ行動様式にたどり着いた思想家が、スキゾキッズなのである。
 島田雅彦の作品は初期のものしか読んでないが、ラノベの走り、またはラノベと純文学の中間領域の作品と理解している。またミーハー色が強いが、ある種の”思想小説”になっている点が評価できる。

 とは言え、龍や春樹の村上文学の方が島田文学よりも自分の感性に合っている。
 

第七番勝負 中上健次 vs アルチュール・ランボー/文芸評論は”中上流”で

 ところで中上のランボー論をご存じだろうか。某編集者によれば、中上の勝手な”自己流”評論で、書いてあることは滅茶苦茶だと言うが、私も同意見だ。同じランボー論なら小林秀雄のそれの方がましだ。
 学生時代、私は背伸びしてペーパーバックのフランス語の原書を買ったことがある。『地獄の季節』だっただろうか。結局、ページにして3ページ程度、お気に入りの詩を一つだけがんばって読んでみた。声に出してフランス語を読んでみると、なんとランボーは韻を踏んでいるのだ。
 韻を踏んでいるとなると、外国語の詩歌など、翻訳では本当の魅力は味わえない、と思った瞬間だった。

 で、そんな自慢話はともかく、中上の文芸評論は”自己流”が多い。だとしたら、中上文学を語るのは”中上流”=自己流で言いたい放題やるのが流儀にかなっているのではないか。

 ......という屁理屈で、中上健次について”中上流”で論じてみました。感想、反論ある方、歓迎します。

                                          (了)